ホモである「ホモ・サピエンス」

大澤真幸*1「随伴現象説を超えて」『本』(講談社)521、pp.54-61、2019


曰く、


ホモ・サピエンスは、地球上のほとんどあらゆるところに進出している。これほど多様な環境に分布している生物は、他にはない。驚くべきことは、それでもホモ・サピエンスが単一の種だということである。他の種の場合、以前とは大きく異なる環境への進出に成功するのは、しばしば、種そのものを分化させたときである。つまり別の種へと転換するほどの遺伝子レベルでの変化があったとき、極端に異なった環境に適応することができるようになるのだ。ところがホモ・サピエンスは、その誕生の地となったアフリカ*2を離れ、大きく異なった環境に入っても、他の種へと転換するほどの遺伝子レベルの変化を起こさずにすんだ。どうしてなのか。文化のレベルでの変化が、もしそれがなかったら必要だったかもしれない遺伝子レベルでの変化を補償したからだ。(p.58)

ホモ・サピエンスが種としての同一性を保ちながら、地上のほとんどあらゆるところに進出し、そこで暮らすことができるようになったのは、文化が遺伝子に促進的にも抑制的にも作用しつつ、遺伝子と共進化したからである。しばしば、文化のレベルでの発明や変容が、遺伝子の大きな変化を伴うことなく、サピエンスが多様な環境で生きることを可能にしたのである。サピエンスのほぼ地球の全体への拡散、この事実だけを見ても、遺伝子と文化の共進化が物理的現実に影響をもたらす出来事と見なくてはならないとわかる。(後略)(ibid.)
「遺伝子と文化の共進化」の例として言及されているのは、「肌の色のヴァリエーション」;

(前略)さまざまな肌の色は、紫外線の強度に対する遺伝的適応である。赤道付近の、陽射しが一年中強い地域では、メラニン色素が多い黒い肌の個体の方が自然選択において有利になる。紫外線をメラニン色素で吸収しないと、皮膚の葉酸が破壊されてしまうからである。葉酸は、とりわけ妊婦や胎児にとってはきわめて重要で、不足している場合には、脊椎披裂のような先天異常を引き起こすことがある。葉酸はまた、精子の生成にも関与している。
赤道から離れた地域では、強い紫外線を恐れる必要はなくなる。しかしこちらには、また別の問題がある。ヒトの体は、紫外線B波(UVB)を使って、ビタミンDを合成している。このビタミンは、脳、心臓、膵臓、免疫系の正常な機能には不可欠だ。黒い肌は、UVBを遮りすぎてビタミンDの合成を阻害する。高緯度地域で暮らすときには、メラニン色素が少ない白い肌の遺伝子が、自然選択において有利になる。
ところが、ビタミンDは、食事から摂取することもできる。実際、高緯度地域の狩猟遊牧民(たとえばイヌイット)は、ビタミンDを多く含む食物を摂るようになった。彼らは、魚や海洋動物をたくさん食べるのだ。この場合には、皮膚のメラニン色素を減らす方向の選択圧は弱まるので、肌の色もそれほど白くはならない*3。(pp.54-55)