松玉*1「中動態の世界について 能動/受動の向こう側へ」https://matsudama.hatenablog.com/entry/tyuudouta
『中動態の世界』は買っていない。國分功一郎さんの本で最近買ったのは『原子力時代の哲学』*2だし*3。でも、「中動態」というのにはずっと興味があった。何故興味があったのかといのは話すとちょっと面倒臭くなるので、ここでは主観主義や客観主義へのアンチ、主客図式の脱構築、主体の脱中心化といった鍵言葉を散りばめるに止めておく。「中動態」というのは(たしか)希臘語文法の用語。それよりも日本語文法用語の「自発」という方がわかりやすいかも知れない。こちらの方は、中学生以上だったら、誰でも習っている筈だ。この「中動態」というのはそんなに特別なことではない。ありふれているというか、日常的なことだ。所謂感覚的経験というのは基本的に「中動態」的だと言っていいだろう。嗅覚、触覚、味覚は勿論のこと、聴覚や視覚も。見たり聞いたりするとき、私たちは特に能動的に見たり・聞いたりしているわけではない。見えてしまう、聞こえてしまう。音とか像とかが向こうから私たちにやってくる、或いは偶々通りかかったら音とか像とかがそこにあったということも屡々だ。英語のseeとかhearはこういうことを織り込んだ動詞で、見つめるとか耳を傾けるといった能動的なニュアンスを強調する場合には、look atとかlisten toを使うということも、中二以上だったら誰も知っていることだ*4。能動的でも受動的でもない経験というのは感覚的経験を超えて広がっている。例えば、
This book sells well.
「本」が「売る」という能動的動作をしているということではない。この本はよく売れているというのは本にとっては受動的なことかも知れないけれど、このように能動態の文で表現される。或いは、
This book reads well.
はどうだろうか。この本は面白いという意味。「本」が「読む」という動作をしているわけではない。「読む」のはあくまでも私だろう。こんなにありふれている「中動態」が奇妙なものに感じられるとしたら、それは 文法構造によって隠蔽されているからかも知れない。英語などでは、 主語と動詞がなければ文を作ることができない。主語がない場合でも、空虚なitやceを使って、主語が存在しているかのように見せかけなければならない。アラン・ワッツ*5が考えたというWhat is it that rains?という英語の公案(禅問答)があるけど*6、それでも、英語話者にとっては、このitが空虚な見せかけの主語であり、It rains とかIt snows.というのが能動的でも受動的でもない事態だということは自明なのことであるけれど、日本語話者の場合は、
雨が降る
雪が降る
の「が」という格助詞のおかげで、雨や雪が「降る」という動作をしていると考えてしまうかも知れない*7。
- 作者:國分功一郎
- 発売日: 2019/09/25
- メディア: 単行本
- 作者:E. レヴィナス
- メディア: 文庫
*1:See also https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2019/02/03/095133 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2019/02/11/003544 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2019/02/14/114144 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2019/02/27/110533 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2019/08/15/211032
*2:Mentioned in https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2019/11/22/100637 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2019/11/28/131640
*3:https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2019/12/01/095733
*4:さらに正確に言うと、look atは不動の対象を見つめることを意味し、動く対象を見つめることを表現するにはwatchを使う。
*5:See eg. https://en.wikipedia.org/wiki/Alan_Watts
*6:これを最初に知ったのは、ロビン・ギル『英語はこんなにニッポン語』という本だった。 英語はこんなにニッポン語―言葉くらべと日本人論 (ちくま文庫)
*7:中国語では、下雨了(下雪了)。これをどう文法的に説明すればいいのか、私にはわからない。