「あまりに自立しすぎて」

東畑開人「「なぜ原子力を使ってはいけないのか?」を“哲学的”に考えるとどうなるのか」https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20191121-00015287-bunshun-soci


國分功一郎*1原子力時代の哲学』の書評。


本書は「なぜ原子力を使ってはいけないのか」と問うことから始まる。東日本大震災原発事故以降、私たちはこの問いに対する様々な政治的・経済的な議論を耳にしてきたわけだが、著者はこれに対して“哲学的”に考え抜く必要があるという。すなわち、「なぜ人間は原子力をこんなに使いたいのか」と問う。そのために、自然とは何か、技術とは何かと問い、古代ギリシアから現代に至るテクストを縦横無尽に読み込んでいく。とりわけ、ハイデガーの「放下」という奇妙なテクストを追いかけていく。

 最後、名探偵は犯人にたどり着く。フロイトナルシシズム概念だ(これがネタバレだ)。つまり、「これでやっと何にも頼らなくても生きていけるぞ」という外部を必要としない、完全な自立への欲望こそが原子力信仰の根底にあるものだと看破されるのだ。

書評している東畑氏は「心理療法家」である;

本書が心理療法家である私にとって切実であったのは、國分氏が語っているのは、原子力のことでもあるのだが、同時に原子力「時代」についてであるからだ。すなわち、私たちの「時代」が語られているのだ。

 私は日々、誰にも頼れず、自ら周到に他者を排除してしまう人たちと心理療法を営んでいる。彼らは原子力のようにあまりに自立しすぎていて、孤独になっている。他者とうまく繋がれないのだ。それは競争的で自己責任を問われ続ける私たちの時代を極端な形で具現した孤独だと思う。本書を読んでいるうちに、私は気づけばそういうことを「考え」させられていた。

ところで、私も「原子力」と「ハイデガー」については幾度か言及していたのだった*2