深川(川田順造)

川田順造*1「銀座は下町?」『銀座百点』(銀座百店会)523、pp.36-38、1998


川田順造氏は「江戸時代の中ごろに上州から出てきて、本所ついで深川に小さな米屋の店を出していた商人の家に昭和九年に生まれ、八つまで深川で育った」という(p.36)。
少しメモ;


いわゆる下町といっても、深川は日本橋や神田の「お曲輪内」からみれば「川向こう」の、草深いところで、荒っぽく、痩せ我慢をして見栄を張るのが生きがいのような人たちが住んでいた。私が生まれたのは、行徳の塩を江戸に運ぶために、家康が開削させた小名木川隅田川に注ぐあたりに近い、高橋という、深川の中でもまたひときわ荒涼とした、川船を介して下総など鄙とのつながりの強かったところだ。
生家から見て小名木川の向こう岸、つまり南側に、岩出さんという大きな肥料問屋ああったそうだが、ほかには神田、日本橋、蔵前のような大店の老舗もなく、田安様など昔の大名の下屋敷のあいだに、棒手振りや職人の住む棟割長屋や小商人の店があるくらいの、およそ貧相なところだった。家業の米問屋が戦時統制で続けられなくなり、並行してやっていた藁工品の組合の勤め人となった父は、奉公人上がりの婿養子の生真面目な男で、生業も停止させられた上に、変わり果てた東京に嫌気がさしたのだろう。空襲がはじまる少し前、深川の家を人手に渡して、千葉県の市川に引っ越した。それで昭和二十年三月十日のあの悪夢のような大空襲に遭うことは免れたが、身内や知人は、生死の確かめられなかった人も含めて大勢亡くなり、生家も跡かたもなくなった。(ibid.)
さて、「銀座」について;

(前略)銀座はあか抜けた高級感と、下町っぽい気さくさ、そして生活感が混ざりあって、独特の雰囲気をつくっている。”下町的”ではあるが、神田、日本橋のような下町とも、川向こうの深川のような下町とも違う。(p.37)
また、「伝統回帰にも、がんばった先端性追求にも走らない、日常態の大人の都会」であるとも(p.38)。
See also https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20130129/1359438129