「文字」の権能その他

アフリカ (地域からの世界史)

アフリカ (地域からの世界史)

家に放置されていた川田順造先生の『地域からの世界史5 アフリカ』を夢中になって読んでしまう。川田先生の専門というか主要なフィールドが「モシ族」であるせいか、記述が西アフリカ或いは中央アフリカは詳しいものの、南アフリカは相対的に薄いのではないかという感じもしたが、とにかく面白かった。例えば、西アフリカや中央アフリカにおける王国や帝国の興亡の記述とかは手に汗握らせる。
ここでは、I章「アフリカの黎明」でなされている「文字」についての省察をメモしておく。


ある社会が文字をもっているかどうかは、「文明」と「未開」を分けるもっとも重要な基準とされてきた。文字をもつ社会でも、文字を知っている者は、古代エジプトの初期(スクリブ)から江戸落語でおなじみの横町のご隠居さんまで、「目に一丁字ない」大衆とは区別された特権を享受してきた。
だが文字というものはなぜ、社会や人間の質を決めるうえで、それほど重視されるのだろう。「史」を「ふみ」と読む感覚にもはっきり表れているように、文字はまず第一に、「歴史」と結び合わされてきた。そして、歴史とは文字に書かれた記録であり、文字記録によって過去を探究するのが歴史家の仕事であると考えられてきた。文字をもたない社会は、アフリカの黒人社会が長い間そう考えられてきたように、「歴史のない」社会なのであった。
文字は第二に、社会の掟や取り決めを確定するための重要な手段とされてきた。私たちの社会でも、大切な取り決めは「書いたものにしてください」という。成文化された法や契約書のない社会は、ある程度以上の、たとえば「国家」のような社会的統合をつくり、維持することのできない社会と考えられてきた。第三に、文字は知識の伝達、習得、蓄積にとってきわめて有用な媒体であり、文字によって、人間の知識は飛躍的に増進される。したがって文字をもたない社会は、知識の水準が低い社会とされてきた。(pp.25-26)

成文法としての憲法をもたないイギリスをはじめ、文字なしで広大な地域の政治的統合を実現したインカ帝国、慣習法によってかえってよく秩序の保たれている多くの無文字社会、書かれた契約書も手形もなしに、数百年の間、西アフリカ内陸の広大な地域に交易網を維持してきたワンガラ商業集団などの例は、先の第二の点も絶対的でないことを示している。
このように、人間のもつ多様な表現・伝達手段のなかで文字が占める位置は相対的なものだが、しかし文字が他の媒体と比べて格段に優れた特徴をもっていることも確かである。文字の長所は第一に、時間・空間を隔ててメッセージを伝えられること(遠隔伝達性)、その一つの帰結として、何度でも同じメッセージをくりかえし参照できること(反復参照性)。そして文字というある数の組み合わせで多様な言語メッセージを伝達できること(高度の分節性)の三点に集約できるだろう。
一方これらの特質を、文字を書いて表現・伝達を行う主体の側から見ると、第一にコミュニケーションの媒体として、人間の身体の外に定着されること(外在性)、第二に文字は話し言葉のように、時間の流れに左右されないこと(脱時間性)、第三に文字で書き表すことによって、確認源が自分の考えを対象化して認識すること(自己認識性)、などの点をあげることができる。文字のこうした特質は、文字を他のコミュニケーションの方法のなかに置いてみると、いっそう明確になるし、同時に、文字のもっている特別の役割も相対化しやすくなると思われる。
このような見方から、文字を一方の極に置いたとすると、反対の極には、身振り、ダンスなどの身体的表現を置くことができるだろう。これらの表現・伝達方法は、表現する者にとって外在性がなく、時間のなかに消えてしまうものであり、表現されるものと表現する主体との分裂がほとんどないか(たとえば忘我の状態での身体表現のなかへの自己埋没)、著しく弱い。表現されるメッセージの遠隔伝達性も微弱だし、反復参照性も低く、日本舞踊で「あて振り」と呼ばれる模倣的なゼスチャーや、かなりの程度文字をベースにしている手話などを除けば、伝達される意味の分節性もほとんどないといってもよい。(pp.26-28)
また、序の「アフリカ史の基本問題」から;

(前略)アラビア語で、あるいは現地語をアラビア文字で表記したおびただしい文書が、イスラーム・アラブの影響の及んだ多くの地方に、未公開のまま私蔵されていることがわかっている。これらの文書を発掘、解読、資料化して、歴史研究に利用できるようにすることも、困難だが急を要する作業である。
(略)サハラ以南アフリカでは基本的に、時間を経て後世に伝えられる、いわば歴史的性格を帯びることになるメッセージは、滅びやすい媒体に託して、その媒体をくりかえし更新することによって受け継がれてきた。多くの王国で、王の代が替わるごとに場所を変えて建てられた、焼いていない粘土でつくった王宮は、放棄されて数十年もたてば、雨も太陽の熱も激しい熱帯の風土のなかで、もとの土にかえってしまう。湿気やシロアリの害で損傷が激しい木彫りの仮面や祖先像は、ある年月をおいて同形のものを彫りなおし、前のものは祀り捨てるのが常態だった。生きた人間を媒体として伝えられる口頭伝承や身体伝承――労働や日常動作における身体技法から、社会関係の身体的表現としての礼儀作法、儀礼や踊りにおける身体の使い方まで――は、各媒体の持続が短い点で、このような更新によるメッセージ伝達法の一方の極をなしているといってよいだろう。(pp.10-11)
そういえば、川田先生のこの本とほぼ同時に同じ朝日新聞社から、勝俣誠『アフリカは本当に貧しいのか』が出ていたのだった。
その「はじめに」に曰く、

[1970年代]時代は、第三世界一般に、とりわけアフリカに明るい将来を約束していた。そして、これはまた石油価格の高騰を契機とする「南」の国々の資源ナショナリズムが「北」の国々によって深刻に受け止められ、より公正な「南」と「北」の関係が、「南」と「北」の双方から本格的に模索された時代でもあった。
しかし、一九八〇年代に入ると、アフリカは冬の時代を迎える。「北」の国々にとって手ごわい「南」のパートナーとしてのアフリカはいつのまにか後退し、援助の対象としてのアフリカが、いつの時代にもまして語られるようになった。
と同時に私自身は、アフリカをその時まで余りに大きなキーワードで束ねて考えようとしてきたことに気づいた。まぎれもない「南」の国々としてのアフリカの個々の「国家」、「民族」、そしてその「低開発性」、「富の流出のメカニズム」などが様々な概念の組み立てによって説明されることがあっても、アフリカ人が日々その困難を切りぬけるために、どうやってある時は状況を受け入れ、またある時は立ち上がるか、といった生き様を、自分がまだしっかりと見ていないことに気づいた。一言で言えば、アフリカの人々の顔が見えないまま、アフリカを様々な概念の単なる総体として分析し・説明してきたのではないかという反省を感じるようになった。
一九八〇年代初頭からの一〇年は、こうした顔の見えないままのアフリカではなく、何よりも、自分の限界を認めながらも、日々生きているアフリカの人々の生活を見ることから、もう一度、「南」と「北」の関係のあり方を考えてみるようになった。(pp.3-4)
アフリカは本当に貧しいのか―西アフリカで考えたこと (朝日選書)

アフリカは本当に貧しいのか―西アフリカで考えたこと (朝日選書)