イスラーム社会における政教分離の例

アフリカ (地域からの世界史)

アフリカ (地域からの世界史)

川田順造『地域からの世界史9 アフリカ』*1から少しメモ。
政教分離政経分離でもあった。
「現在のモーリタニア東南部を中心として、八世紀はじめから一一世紀末まで栄えたと思われる」「現在までに知られているアフリカ最古の黒人帝国」(p.85)である「ガーナ」について;


ガーナの都は、王宮のある王都と、六千歩離れたイスラーム教徒の町からなっていた。イスラーム教徒(商人と宗教家)の町には、十二のモスクがあった。王の通訳、財宝管理官、側近の多くはイスラーム教徒から選ばれ、イスラームは王権に強い影響力を及ぼしていた。二〇世紀になって、モーリタニア東南部のクンビ・サレーで発掘された石造りの多い都市遺跡は、このイスラーム教徒の町ではないかと思われる。(p.86)
この


王/商人
異教徒/ムスリム


という図式はその後に興った「ニジェール川大湾曲部」の「マンデ系」の諸王国にも当て嵌まる。またその都市の特徴は「城壁がないかあっても粗末」であることである(p.109)。


(前略)大湾曲部の都市、とくにマンデ系諸民族が築いたガーナ、マリなどの帝国で形成された都市や、マンデ系文化の影響が強く及んだその南のサバンナの王国、モシ=マンプルシン=ダゴンバ諸王国(現在のブルキナファソとガーナ)などでは、王と商人はつかず離れずの関係で分かれて住むのが原則だった。
八世紀頃から北アフリカとの長距離交易を経済的基盤として栄えたガーナ帝国の都も、一一世紀最盛期の頃のアル・バクリの記述によると、王の町と商人の町は六千歩離れており、イスラーム教徒である商人の町には十二のモスクがあるが、異教徒である黒人の王の住む町には、来訪者用のモスクが一つあるだけだ。しかし王は商取引(ガーナ領内でとれる金と、北アフリカからの岩塩や衣類、ウマ、工芸品などの交易)に対して課税し、それが主要な財源となっていた。
ガーナの衰退後、一四世紀を頂点として広大な版図を支配し、やはり北アフリカとの交易を基盤としたマリ帝国では、王都は一か所に定まっていなかった可能性がある。トンブクトゥ、ジェンネをはじめとする商業都市は、むしろ王の直接支配を離れて、イスラームの司法官カディの管轄下にあった。さらに南のモシ=マンプルシン=ダゴンバ諸王国でも、王はイスラーム教徒の商人を厚遇したが、王自身は原則としてイスラームに入信せず、王が市場に足を踏み入れることはタブーだった。マンプルシの王は、王都ガンバガがハウサと南のアシャンティ王国の交易の中心地として栄えると、王都を八キロ離れた地点に移してさえいる。(pp.109-110)