「カナダから」だったかも知れない

https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2019/03/12/104959に対して、


id:nessko


モモといわれるとエンデのモモしか思いつかなかったですが、モモ・チャレンジのあの画像ははてなブックマークで見た覚えがあった。でもよく読んでなかったので知らなかったです。
南米から、というのが、昔日本で流行った「カナダから来た不幸の手紙です」みたいですね。

不幸の手紙」と特定の国との結びつきというのは知りません。先ず連想したのは、ベタですが、平尾昌晃(&畑中葉子*1。Love Letter from Canada!
さて、「不幸の手紙」ということだと、例えば、


初見健一「「不幸の手紙」…小学校を襲った「不安の連鎖」」http://gakkenmu.jp/column/17806/
初見健一「「不幸の手紙」のはじまり」http://gakkenmu.jp/column/17808/


『ムー』の人ですけど。
1970年代の「不幸の手紙」というのは大正時代に流行った「幸福の手紙」の反復であるらしい;


初見健一「「不幸」の起源となった「幸運の手紙」」http://gakkenmu.jp/column/18028/


少し抜書きしてみると、


「幸運の手紙」とは、1922年(大正11年)に突如出現し、たちまち大流行したとされる奇妙な手紙である。同年の『東京朝日新聞』1月27日付には、「舞い込む謎の葉書 薄気味悪い『幸運のため』」という見出しの記事が掲載されている。昨今、巷では「貴下の幸運の為めに」と題された葉書が各家庭に続々と届きはじめた、という内容だ。その手紙の主旨をまとめてみると……

この葉書を受け取ったら、24時間以内に9人の知人に同じ文面の葉書を出さなければならない
実行すると9日後に幸運がめぐってくる!
実行しなければ大悪運がめぐってくる!
この葉書はある米国の士官からはじまり、すでに地球を9度回っている

新聞の記事は葉書を受け取った多くの人が不安の念にかられていることを伝え、「迷信か悪戯か知らぬが妙なことをする」と結んでいる。すでにこの段階で爆発的に流行していたらしく、わずか2日後の同紙にも「『幸運』の葉書に脅かされる人々」という見出しで、葉書を受け取って困惑する人たちの声を紹介する記事が掲載されている。どうやら完全に「社会問題」となっていたらしい。

この「幸運の手紙」は1922年の大流行からほどなくして終息するが、4年後の26年の夏に再び大ブームとなったそうだ。


ただ、「幸運の手紙」と「不幸の手紙」には大きな差異もある。前者があくまでも大人たちの間で流行したのに対し、「不幸の手紙」は小中高生の間で流行したことだ。一説によれば、「幸運の手紙」が子どもたちの間でやり取りされるようになったのは、最初の流行から30年以上も経た1954年ごろだとされている。当時の「読売新聞」には「『幸運の手紙』、子どもの世界に侵入」といった記事が掲載されたそうだ。1970年前後に子ども文化においてビッグバンを起こす「不幸の手紙」は、50年代に「子どもの世界に侵入」した「幸運の手紙」が、わかりやすく単純化されていったものだったようだ

「幸運の手紙」と「不幸の手紙」の間にはもうひとつ、決定的な違いがある。特にその初期においては、「幸運の手紙」には差出人名がしっかりと明記されていたという。差出人名だけでなく、そこに至るまでの仲介者の名前のリストが付いており、そのリストを書き写し、さらに自分の名を追記して次へまわす、というのが基本ルールだったのである。もちろんリストが本当に信頼できるものなのかの保証はないが、それでも一応は葉書の経路は明確になっており、特に直近の差出人についてははっきりしているケースが多かったようだ。この違いは非常に大きく、「不幸の手紙」の特性である陰湿な無記名性は、「幸運の手紙」にはなかったわけだ。
幸福の手紙」の起源は?

先にも書いた通り、「幸運の手紙」には多くの場合、「この手紙はある米国の士官からはじまり……」といったことが書かれている。これも捏造された設定ではなく、実際にアメリカ、及びイギリスなどでは、以前から「good luck letter」などとして「幸運の手紙」が流通していたらしい。そして日本に流布した初期の「幸運の手紙」は、英語圏に流通していた「good luck letter」が国内に届き、受け取った日本人が日本語に翻訳して広まったものだったようだ。

丸山泰明氏の研究論文(『国立歴史民俗博物館研究報告』第174集/2012年3月)によれば、1926年に政治学者である吉野作造も「幸運の手紙」を受け取っているが、差出人は外務省高官や貴族院議員だと述べている。いずれにしろ、英語圏に知人のいる役人や政治家、あるいは軍の上層部など、いわゆる上流階級の人々によって「幸運の手紙」は国内に持ち込まれたらしい。

起源は英語圏。英国や米国だけじゃなくて、カナダから来た可能性もないとはいえないだろう。「カナダから来た不幸の手紙」というのは起源的にはありなのだろうと思った。
また、


初見健一「「幸運の手紙/不幸の手紙」の時代背景」http://gakkenmu.jp/column/18034/


但し、「不幸の手紙」の背景となった1970年代は語られていない。
大正時代における「幸運の手紙」ブームの終息には警察権力の介入が関わっている。「幸運の手紙」を発信した者には20日間の拘留処分が課せられた。


大正時代は、維新以降、国家主義が急速に盛りあがった明治時代と、あれよあれよと帝国主義へと傾倒していく昭和の隙間で、「大正デモクラシー」の名のもとに「民衆の自由」が大きくクローズアップされた(かのように見えた)特殊な期間だった。1922年には非合法組織としての第一次共産党が結成され(奇しくも「幸運の手紙」が「社会問題」化した時期と重なる)、急進的なリベラリズム、さらにはアナキズムの気風が高まった、いわば「過激な時代」だったのだ。権力側からすれば危機的状況であり、反権力的な「時代の空気」の刷新を水面下で着々と進めた期間でもあったわけだ。結局、この白日夢のような「自由な時代」は、関東大震災という「国難」を契機に終了に向かう。大きな災害はたいていの場合、大きな権力の必要性を正当化する。「大正デモクラシー」などという浮かれたお題目は脇に置かれ、「国難」を前に「国民一丸となって」という気分を民衆も共有しはじめるのだ。そして、震災のドサクサを利用する形で不当に拘束されて殺害された大杉栄のように、「不満分子」は徹底的に排除される風潮が国を覆いはじめる。

日本における「幸運の手紙」の流布に明確な政治的な目的を持った仕掛け人がいたかどうかはわからないが(その可能性は低いような気がするが)、ごく遠慮がちに言っても、震災がそうであったように、ある絶妙なタイミングで起こった事象を誰かが上手に利用し、一般大衆に対する内偵や取り締まりの強化といったことに結びつけて「空気づくり」を図る、といった程度の思惑は、その背景に間違いなくあったのではないかと思う。

戦時中の「幸運の手紙」;

一瞬だけ民衆が自由を主張できた大正があっという間に終わり、日本が世界へ「躍進」を試みた昭和に入り、そして戦争がはじまる。

その間も「幸運の手紙」はさまざまな亜種(ねずみ講的にアレンジされたものや、広告として利用されたものなどもあった)を生みながら、連綿と受け継がれていった。戦時下では、内務省警保局が共産主義者や過激派的右翼、そして一般大衆の反戦・不敬に類する言動を厳しく取り締まったが、「幸運の手紙」も「警戒対象」に含まれていたという。アメリカの士官からスタートしたとされる「幸運の手紙」は、「キリスト教的平和主義」を蔓延させるものとして警戒され、「英米依存の思想」を流布させるための「謀略行為」だと考えられていたらしい。

そして、いよいよ敗戦が誰の目にも明らかになりはじめた1943年、大阪には次のような「幸運の手紙」が出まわったそうだ。

「我々はもう戦争はあきあきしました。一日も早く平和の来るよう神様にお祈りいたしましょう。此の葉書を受取った方は此の葉書の通り書いてあなたの知人二人にお出し下さい。早く平和の日がきます。」

「特殊な期間」としての大正については、竹中労『断影 大杉栄*2をマークしておく。
断影 大杉栄 (ちくま文庫)

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