下の話

磯田道史*1「『伊丹十三選集』刊行に寄せて」『図書』(岩波書店)841、2019、pp.6-9


以下閲読注意(下ネタのため)!
伊丹十三*2の『日本人よ!』を巡って。
江戸時代後期の天皇の日常生活について、「日本史研究やドラマの時代考証にまで大きく影響している」のは、一条家家臣で「京都御所の殿部」だった下橋敬長述『幕末の宮廷』である(p.6)。しかし、伊丹十三は「天皇の日常」について、猪熊兼繁から直接聞き出している。


(前略)猪熊兼繁は京都大学法学部の日本法制史の教授であったが、ただの京大の先生ではない。その先祖は代々、朝廷の神祇官をつとめ、猪熊家の女性は、御所にあがって天皇の御側にも仕えていた。兼繁の祖父・猪熊夏樹は、崇徳院の御霊を京都にむかえるために白峯神宮*3を創建するのに尽力し、その宮司となった国学者で、猪熊夏樹―浅麻呂―兼繁と、有職故実を伝えてきた家柄であるから、天皇の日常生活の裏側を知り尽くしていた。(後略)(p.7)
「宮中の便所や便器」の話;

(前略)御所に便所が出来たのは、徳川時代からであり、それまでは、オハコという便器、おまるのようなものが使われていたことは、知っていた。しかし、その、天皇のおまるが、どのような素材で作られ、どのように使用され、誰がそれを洗浄していたか、そこまでも、伊丹さんは猪熊兼繁から情報を得ている。この便器は、革製で、漆を表面に塗ってあり、なかには蒔絵をほどこしたものまであったそうで、天皇の女官のなかの下っ端の「御末」が洗滌する係りになっていたという。なかには砂・灰・神を入れて、排せつ物をつつみこめるようにしていたらしい。
下橋の証言から、天皇と御末は、よく会話をかわすことは知っていた。はばかりに入るときに、天皇の下着を取替えねばならず、必然的に、天皇と下っ端女官の御末は、会話をかわすようになる。公家の娘は、身分が高いから、御末にはならない。御末は京都の由緒ある神官の娘がなっていることが多かった。わたしは、この御末を出していた神社を訪ね、御末の子孫をみつけて、どうにか、このあたりの話を聞き出そうとしたことがあった。しかし、平成になってからのことで、空振りに終わった。(後略)(ibid.)

(前略)江戸時代の御所の便所は、畳敷きであることは、わたしも知っていた。だが、植木鉢に香りの高い花を植えて、便所に置き、元祖・芳香剤として置かれていたところまでは、知らなかった。「日本人よ!」には、大切な瑣末事実が詰まっている。
なぜ些末事実が大切かというと、御所の便所の構造が、天皇の病状分析などに、かかわってくるからである。例えば、孝明天皇には毒殺説がある。はじめ、疱瘡(天然痘)にかかったことは間違いないが、病状が回復しかけたところで、急死された。だから、人によっては、あれは毒殺だという。ほんとうに孝明天皇の病状が回復していたかどうかは、天皇が召し上がったものと、お出しになったものを、その数量的なところを古文書で丁寧にみていかなければならない。明治期に編纂された『孝明天皇紀』はたいしたリアリズムで、孝明天皇崩御の直前に食べたものばかりか、「御大便一行」といった表現で、排せつ物の量まで記録し、しかも、明治国家が活字化して公表している。しかし、この「御大便一行」の「一行」は、なぜ記録できたのかというと、伊丹さんが証言でとってきておられるように、宮中の便所が肥溜め方式でなく、砂や紙をしいた、おまるのひきだし方式になっていたからである。女官がそれを片付け洗う前に、便量を医師団に報告したから、記録が残ったものであろう。ところが、現在の京都御所には、「つぶしよったんですなァ」と、猪熊兼繁が慨嘆しているように、このような構造の便所は保存ざれていない。(p.8)
14代将軍徳川家茂は「脚気」で死んだが、孝明天皇は「脚気」にならなかった;

(前略)孝明天皇は漬物をたくさん食べた。大根の漬物や、シソを肴に、酒をたくさん飲まれた。卯の花つまりオカラも好まれたという史料をみたこともある。つまり、いろいろな食品を召し上がっていた。脚気にならなかったのは、そのせいであろう。ただ、酒を漬物で召し上がるので、塩分が多く、痔にはなりやすかった。『孝明天皇紀』は恐るべき公開度の高さだから、孝明天皇が痔に悩まれていたことを包み隠さず、情報公開している。現代では『大正天皇実録』などが公開されても、天皇・皇族の病気にかかわる部分は、宮内庁の方針か、非公表にされることが多く、黒塗りにされていて公開されない。(pp.8-9)