「崔杼弑其君」

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20180306/1520345174に対して、「『左伝』にある斉のエピソードも思い出されます。」というコメント*1。これは「『孝明天皇紀』は権力にとって都合が悪いことでもなんでも原物の史料がきちんと削除されず示されています」という磯田道史氏の言葉*2に対して、ということでいいのでしょうか。
「崔杼弑其君」ですね。『斉の歴史』というサイトの「崔杼、其の君を弑す」に曰く、


荘公の六年(前548年)、崔杼は棠公(とうこう・棠の地の大夫)の未亡人・棠姜を娶ることにした。棠姜の弟である東郭偃(とうかくえん)は、「崔氏は斉の丁公の子孫であり、東郭氏は桓公の子孫である。同じ姜姓を持つ両家の婚姻は認められない」と反対したが、結局崔杼は棠姜を娶ったのである。

この同姓婚は良い結果に結びつかなかった。荘公が度々崔杼の屋敷を訪れ、棠姜に強要して密通を行うようになったのである。従者はそれを諫めたが、聞き入れる荘公ではない。崔杼はもちろん主君の無道な振る舞いに激怒し、いつか思い知らせてやろうと心に誓った。

そして復讐の時は訪れた。崔杼が病に伏せっていると聞き、荘公が見舞いにやってきたのである。荘公は早速棠姜の寝所に入り込もうとしたが、屋敷の中から崔杼の手の者が押し寄せ、荘公を討ち取ってしまった。晏嬰はその事を聞くと崔杼の屋敷を訪れ、主君の遺体を目の前にして大声で泣き、悲しみの意を表す哭礼(こくれい)を行った。ある人は崔杼に晏嬰を殺すよう勧めたが、崔杼は「あれは人民に慕われている。ここで殺してしまっては人心を失うことになる。」と言って、晏嬰を放っておくことにした。

崔杼は荘公に代わり、その異母弟にあたる杵臼(しょきゅう)を景公として即位させた。そして崔杼と慶封(けいほう)はそれぞれ宰相に任じられた。二人の宰相は国の大夫たちに、自分達の命令に従うように誓いを立てさせたが、晏嬰だけは天を仰いで「私はただ主君に忠義を尽くし、社稷(しゃしょく=国家)に対して利益を計る者に従うだけだ。」と言い放ち、誓約に加わらなかった。慶封は彼を殺そうとしたが、崔杼はやはり「なかなかの忠臣ではないか、放っておけ」と言って取り合わなかった。

さて、斉の国の太史(歴史の記録などを司る官)は、崔杼が荘公を討ったことに対して、「崔杼、其の君を弑す」と記述した。(「弑す」(しいす)は、臣下が主君を殺して謀反を起こすという意味であり、下克上の意を示す。つまり、崔杼が悪事を行ったことを強調して彼を批判しているのである。)崔杼はこれが気に入らず、太史を殺してしまった。ところが太史の弟たちが兄の仕事を引き継ぐと、やはり同じように記述する。崔杼は太史の二番目と三番目の弟も殺したが、四番目の弟も「崔杼、其の君を弑す」と記述するのを見て、記録を改めさせるのをあきらめた。

一方、太史の一族が全員殺されたと聞き、南史氏が彼らの意志を引き継いで正しい記録を残そうと朝廷に出掛けたが、四番目の弟が生き残って使命を果たしたことを聞くと、引き返して行った。
http://www.sun-inet.or.jp/~satoshin/chunqiu/sei/sei11.htm

まあ崔杼の方もパワハラの被害者だったわけですけど。
さて、これを高校の漢文の教科書で知ったという方もいますけれど*3、私が知ったのはかなり後に読んだ武田泰淳司馬遷』においてでした*4
司馬遷―史記の世界 (講談社文芸文庫)

司馬遷―史記の世界 (講談社文芸文庫)

*1:http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20180306/1520345174#c1520387151

*2:in吉川慧「公文書を隠蔽すれば「国家が死ぬ」 歴史家・磯田道史さんが危惧する日本政治のおかしさ」http://www.huffingtonpost.jp/2017/09/03/michifumi-isoda-03_a_23195349/

*3:Eg. 御堂「「崔杼弑其君光」という文字に込められた意味―歴史への取り組み方を教わったエピソード!」http://sans-culotte.seesaa.net/article/123448690.html

*4:講談社文芸文庫」ではなく「講談社文庫」でした。