「そのすべてが主著」

ポール・リクール (文庫クセジュ)

ポール・リクール (文庫クセジュ)

ジャン・グロンダン『ポール・リクール』(杉村靖彦訳、白水社、2014)から。
ポール・リクール*1の「豊かな著作群は、どれかが真の主著だとはいえず、そのすべてが主著という視覚を要求できるものである」という(p.7)。


リクールの思想をただ一つのテーマに還元するならば、それを無理やりねじ曲げてしまうことにならざるをえない。だが、はじめに彼の思想全体を大づかみに評するならば、それは人間の諸可能性を迎え入れようとする哲学だったといえる。リクールの思想は反省哲学、人格主義、実存主義に根をもっており、最初に(おそらくその後もずっと)作業場としたのは意志の哲学であった。そこから出発して、後年の仕事では〈為しうる人間(l'homme capable)〉をめぐる思索へと行きついたのだが、それに至るまでの道程では、人間の諸可能性に何らかの形で関わるあらゆる分野や領域での成果がとり入れられた。可能性という概念はさまざまな事柄を想起させるが、リクールはそれらをまとめて思索しようとするのである。
偉大な思想家は、この「まとめて把握する(com-prendre)」*2能力において秀でていることが多い。 人間の可能性というと、現代の読者は、物事を企て、自然を認識し支配するという人間の征服的な能力のことだと考えるかもしれない。もちろんそれも人間の能力の一部ではあるが、可能性という語は別のことも意味するはずである。つまり、人間は苦を被ることも、自分がもつ可能性に届かないこともありうる。だから悪をなすこともできるが、同時に行為し、言葉を発し、自分の経験を物語り、約束を守り、赦し、神的なものに触れられることもできる。人間以外の存在者たちは、これらの可能性を人間と同じ形ではもっていない。だが、私たちを形づくる〈存在しようとする努力〉は、これらすべての可能性によって規定されているのである。
リクールの広やかな思索は、この存在しようとする努力が果たしうるすべてのことへと、とりわけこの努力がみずからの経験を物語る言葉を通してなしうることへと注意を向ける。彼の思索が解釈学となるのはそのためである。デレンティウス*3を借用していえば、人間に関わるものでリクールに無縁なものは何もない。とくに、さまざまな神話や宗教、文学や歴史、精神分析であれ認知科学であれ人文科学と厳密科学の双方、古代哲学や分析哲学、そういったものが人間について述べてきたいかなる事柄も、リクールに無関係なものはない。こうしたさまざまな知がもたらすはずの成果をとりこんで、人間の〔存在しようとする〕努力をめぐる責任ある反性的な思考を作り上げていくこと。リクールの仕事はひとえにそのようなものであった。反省的な思考というのは、リクールにおいて最初に印を残しているのが反省哲学――とくにフランス反省哲学――の偉大な伝統だからである(この伝統はメーヌ・ド・ビラン、ラヴェッソン、ラシュリエ、ナベールと続き、エマニュエル・ムーニエの人格主義、ガブリエル・マルセル実存主義にまで及んでいる)。反省哲学が答えようとするのは、人間とは何かという問いであり、もっと単純にいえば、私とはだれかという問いである。リクールにとって、すべての哲学はこの問いかけから生じるものなのである。(pp.8-10)