ソクラテスに「欠けていた」こと

エウパリノス・魂と舞踏・樹についての対話 (岩波文庫)

エウパリノス・魂と舞踏・樹についての対話 (岩波文庫)

ポール・ヴァレリー「エウパリノス」(清水徹訳)*1から。


パイドロス (前略)あらゆる人びとのうちでわたしの讃美してやまぬあなた、眼に見えるもっとも美しいものよりも、生において美しく、死において美しかったあなた、偉大なるソクラテス、愛すべき醜男、毒杯を永世の飲み物へと変える全能の思考、おお、あなた、その身体は冷たくなり、身体の半分はすでに大理石と化していても、残る半分でなおも語りつづけ、神のような言葉を友情をこめてわたしたちに話してくれたあなた、でもこのわたしに言わせてください、そういうあなたの経験にも、たぶん何かが欠けていたということを。
ソクラテス それを教えてもらっても、おそらくは手遅れだ*2。でも、とにかく話してくれたまえ。
パイドロス ひとつのこと、ソクラテス、ただひとつのことがだけが、あなたには欠けていた。あなたは神のようなひとだった。たぶんあなたは、この地上の物質的な美しさなど何ら必要としなかった。そんな美しさなどほとんど味わうこともなかった。田園の優しさ、都市の壮麗を軽蔑してはいなかったし、泉からあるれる水も、プラタナスの繊細な木陰も軽蔑なさらなかった、――それはわたしも知っています。けれどそれらはあなたにとって、あなたの瞑想のための遥かな飾りもの、あなたの懐疑のこころよい環境、あなたの内面に好ましい風景でしかなかった。もっとも美しいものもあなたをそれ自体から遠くへ連れ去り、あなたはいつもちがうものを見ていた。
ソクラテス 人間と人間の精神をね。
パイドロス しかし、そうだとすれば、あなたはその人間たちのなかで、ものの形態や外観に対して特別な情熱を抱いているので驚いてしまう、そんな人たちに出会ったことはないのかしら?
ソクラテス 会ったと思う。
パイドロス しかも、理知も美徳も、だれにもひけをとらないような人たちに?
ソクラテス もちろん!
パイドロス そういう人たちを、あなたは哲学者より上だとお考えになったでしょうか、それとも下だと?
ソクラテス それはひとによりけりさ。
パイドロス 彼らの熱中する対象は、あなたの対象とするもの以上に探究と愛情に値すると思われましたか、それともそれ以下だったでしょうか?
ソクラテス 彼らの対象とするものが問題なのではない。わたしには、〈至高の善〉がいくつもあるとは思えないのだ。わたしにわからないこと、理解に苦しむことは、理知に関してはあれほど純粋な人びとなのに、みずからもっとも昂揚した状態に達するために、感覚で受けとめる形態や肉体の美しさを必要としているということだ。(pp.26-28)