アイデンティティ以前(メモ)

デリダの『たった一つの、私のものではない言葉』から;


われわれの問い、それはつねに同一性である。同一性とはいったい何か――単一文化主義あるいは多文化主義、国籍、市民権、帰属一般などに関するかくも多くの議論を通して、それ自体への透明な同一性がドグマ的に前提とされているこの概念とは? そして、主体の同一性以前に、自己性[ipseite]とはいったい何か? これは「私」と口にする抽象的な能力に還元されるものではないし、それはその能力につねに専攻することになるだろう。自己性とは、おそらく第一に、「私」よりも原初的な「私はできる」という力能を意味している――それも、ipseの«pse»がそこにおいてはhospesの力能、支配ないし主権からもはや分離されるがままにならないような一つの連鎖におけるそれを(私はここで、歓待[hospitalite]と同時に敵意[hostilite]に直接はたらきかける意味論の連鎖を参照している――hostis, hospse, hosti-pet, posis, despotes, potere, potis sum, possum, pote est, potest, pot sedere, possidere, comptos, etc――)。(p.27)
デリダにとって、「自己性」はフッサールのいうキネステーゼ*1と関連することになる。また、『歓待について』も参照のこと。
歓待について―パリのゼミナールの記録

歓待について―パリのゼミナールの記録

また、矢野久美子『ハンナ・アーレント、あるいは政治的思考の場所』に曰く、

アーレントは、ユダヤ的本質や「本来的自己」ではなく、ラーエルの「語り」、すなわちそのつど変化する「結節点」や「具体的な客観化」であり、「世界」への《応答》でもある《身ぶり》を反復することをつうじて、ひとつの生のかたちを表現しようとした*2ポール・リクールは、アーレントの選択をひきついだかたちで「物語的アイデンティティ」(identite narrative)の可能性を追求している。かれは、恒常的に同一の(idem)主体が措定されるの概念にたいして、物語られることによって構成される「自己性」(ipseite)を対置し、「自己性」に「物語的アイデンティティ」を連結しようとする。リクールはこの「物語的アイデンティティ」を単独の個人だけでなく共同体にも適用し、アーレントに示唆をうけながらも独自の理論を展開したのであるが、わたしたちの文脈にとっては、に回収されない「そのもの性」としてのにとどまり、ひとつひとつの《身ぶり》の単独性のあり方を追求することのほうが、重要であろう。(p.110)
ここで参照されているリクールのテクストは『時間と物語』第3巻。
ハンナ・アーレント、あるいは政治的思考の場所

ハンナ・アーレント、あるいは政治的思考の場所

今日、塩川伸明『民族とネイション』を読了したのだった。
民族とネイション―ナショナリズムという難問 (岩波新書)

民族とネイション―ナショナリズムという難問 (岩波新書)