関川夏央on ジャズ喫茶

砂のように眠る―むかし「戦後」という時代があった (新潮文庫)

砂のように眠る―むかし「戦後」という時代があった (新潮文庫)

関川夏央*1「一九六九年に二十歳であること――『二十歳の原点』の疼痛」(in 『砂のように眠る むかし「戦後」という時代があった』、pp.217-241)から。


ジャズ喫茶*2にはおおまかにいってふた種類あった。ひとつは誰かと話していると「お静かに願います」と書かれたメモのまわってくるような店だった。ここに集う青年たちは頭をかかえこんだり眼をつむったり、音の奔流にわが身を打たせる求道僧のようだった。五〇年代に流行した「名曲喫茶」のクラシックをジャズにかえただけで、正統的に受けついだといえるかも知れない。かかる音楽もジョン・コルトレーンセシル・テイラーアルバート・アイラ―など、ひとによっては頭痛がするジャズである*3
もうひとつは高声でなければいくら話しても構わない店だった。若い男女は店にくるとそのままずっとひとりでいてもいいし、誰か、やはりひとりでいる異性の客に話しかけることもできた。「内気なシングルズ・バー」である。ジャズには違いないが、はるかにわかりやすい音楽を流していた。こちらはおそらく「歌声喫茶」が時代にあわせて変態したものだろうが、原型の面影はきわめて稀薄だ。それは学生たちの立場の変化、日本社会そのものの変化の劇しさに見合ったもので、高野悦子が好んだ「シアンクレール」*4はこちらのタイプだった。(p.220)
基本的には1980年代以降しか知らず、所謂伝説の「ジャズ喫茶」、つまり関川氏が挙げる最初のカテゴリーの店というのは経験したことがない。ただ、フュージョンを許容するか否かという区別はあったように思う。白山のEという店で、哲学者のK氏がチック・コリアはありますか? と質問したら、マスターが一言、うちはフュージョンはかけない! と宣言したということがあった。