「ビートルズ」以前(メモ)

目白雑録 2 (朝日文庫)

目白雑録 2 (朝日文庫)

金井美恵子『目白雑録2』*1からメモ。
所謂「団塊の世代」を巡って;


(前略)〈若者文化〉とやらを担ったつもりになっているが、それをカウンター・カルチャーと普通の言い方に変えれば、常識的にはアメリカの50年代にはじまる。ヒッピームーヴメントの前にビート世代があり、アクション・ペインティングをはじめとしたアメリカの現代美術のムーヴメントがあり、『イージー・ライダー』の前に、マーロン・ブランドの『乱暴者』があり、ジーパンとTシャツと赤いジャンパーのティーンエイジャー・スタイルをジェームス・ディーンが世界中に広め、20代のほぼ素人のシネフィルたちが映画を撮ってヌーヴェル・ヴァーグと呼ばれ、プレスリーは激しく腰を振り、日劇のロカビリー大会は社会現象だったのではないか、ビートルズが出て来るのはその後で、〈団塊〉が自分のことをビートルズ世代などと言うのは、洋楽や映画や文化に対して相当なオクテだった連中としか思えない。オクテな連中の方が多かったといえばそれまでだが、〈団塊世代というとビートルズ世代だと思われている。本人たちまで錯覚しているが、’63年(ビートルズが世界を席巻する前の年。引用者注)まで私たちが夢中になっていたのは、甘くて切ない、ビートルズ出現で一夜にして懐メロになった、悲しいポップスだった〉(十月十六日朝日新聞 亀和田武「マガジンウォッチ」(略))のであり、〈「オレたちビートルズで育った世代はさあ」という団塊オヤジの話は、眉にツバして聞いてくれ。〉というのは正しいのだが、眉にツバを付けるまでもなく、このオヤジたちはオクテだったか、記憶力が物凄く粗悪なのだ。私たちが小学生の頃、座敷ボーキやテニスのラケットをギターに見たてて真似た洋楽は断じてプレスリーにはじまる、と言っても、ほとんどの〈団塊〉にはこうした体験は説得力に欠けるのかもしれない。先に引用した三人*2が三人とも〈団塊世代〉を、まるで不意に〈若者文化〉や学生運動の〈青春〉からはじまったように書くことで〈団塊〉のジャーナリズム的イメージを奇妙に共有してしまうのだが、亀和田はビートルズ以前の中高生時代のポップス体験を記憶喪失していないのである。(「うつうつ日和1」、pp.202-204)
イージー★ライダー [DVD]

イージー★ライダー [DVD]

亀和田武の話には前史があって、初期の荒削りなロックンロールが「甘くて切ない」ポップスに取って代わられはじめたのは、ポール・アンカニール・セダカがデビューする1957年か1958年頃であって、因みに1958年にはエルヴィス・プレスリーが入営し、1959年にはリッチー・ヴァレンスバディ・ホリーが飛行機事故で亡くなり、1960年にはエディ・コクランが自動車事故で亡くなっている。ジョージ・ルーカスの『アメリカン・グラフィティ』は1962年のカリフォルニアが舞台だけど、使われている音楽はこの時代の「甘くて切ない」ポップスではなく、この時代既に過去のものとなっていた初期ロックンロール。「ビートルズ*3というのは、或る意味でこの時代の「甘くて切ない」ポップスに抗して、初期ロックンロールを復権しようとした〈原理主義〉的運動でもあったのだ。しかしながら、ロックンロールの黎明時代に「団塊」たちはまだ幼稚園かせいぜい小学校低学年だった筈で、そんなの知らないよということになるのだろう。実は、亀和田武は別のところで、

十年くらい前かな。中学校の同窓会に行ったら、同級生の一人が、すました顔で「俺たちビートルズ世代は」なんていい出すんで、あれには驚いた。「ウソつけ。お前あの頃、いつも橋幸夫舟木一夫ばっかり歌ってたじゃないか」(笑)。(山口文憲亀和田武団塊の辞書に”反省”はない!?」『本の話』131、2006、p.10)
と言っているけれど*4

*1:See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100916/1284660360

*2:関川夏央残間里江子金子勝。See pp.201-202

*3:括弧で括ったのはビートルズというのはあくまでもマージー・ビーツ、日本でいうところのリヴァプール・サウンズの一環であると思うからだ。

*4:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060322/1142995180