『ぴあ』とか

http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20090710


地球の歩き方』の「功罪」について。書かれていることには頷くことも多い。最後に『地球の歩き方』を買ったのは2001年にシンガポールへ行った時で、それからずっと『地球の歩き方』を見ていないのだけれど、今でもそんな「強固」な「力」を持っているのだろうか。わからない。
さて、このエントリーに対して、


Midas 当初は読者のフィードバック情報を基にした和気あいあいなミニコミだったのだがそれが肥大し臨界点を超え信頼度をなくしてった点は雑誌「ぴあ」の軌跡と似てる。ある意味ヒッピー文化起源70年代理想主義の敗北 2009/07/11
http://b.hatena.ne.jp/Midas/20090711#bookmark-14544630
というコメントあり。
『ぴあ』が「ヒッピー文化起源」かどうかはわからない。ただ、私が『ぴあ』を主に愛用していた*11970年代には「Youとぴあ」(ユートピア?)という短文の読者投稿欄があって、「和気あいあいなミニコミ」の雰囲気を醸し出していたことは事実だが。
『ぴあ』については、坪内祐三『一九七二』が後半の3章を費やして、言及している(『ぴあ』は1972年7月創刊)。『ぴあ』が凄かったのは、坪内が記しているように、それまで東京でその月に上映されている映画の情報を1冊の雑誌で知ることはできなかったということだ(pp.408-409)。また、『ぴあ』のラディカリズムは〈情報の集積〉に徹しようとしたことだった。こんなの〈データベース型消費〉の今日では当たり前のことなのかもしれないが、当時において、それは(その政治的スタンスが左であれ右であれ)昔気質の出版人にとってはとんでもないことだったわけだ。『ぴあ』が既に完全に主流文化に居座っていた1982年に、出版評論家の植田康夫は、「この雑誌に入っている「活字」による情報は、従来の活字媒体が持っていた一つの価値観で統一された体系性はなく、一つ一つが断絶された情報の集積に過ぎぬから」、「真に「活字」媒体といえるかどうかは疑問である」と批判している(p.424から孫引き)。しかし、坪内は(初期の『ぴあ』に関して)「イデオロギーや批評という名の意見の押しつけに抗して、情報誌という名の「記号」の羅列の中から自分に見合った情報を選び取る」(p.425)が重要であったという。また、1981年に、細川周平は(『ぴあ』を読む快楽として)「何の偏向もなくただ日付順に並べられた情報に赤鉛筆で差異の標識をつけ、『ぴあ』の中に自分一人の「東京」を描くことの快感」に言及している(p.426から孫引き)。ところで、高校時代(1970年代後半)の私にとって大きかったのは、『ぴあ』を買うと金銭的に得するということだったな。『ぴあ』持ち込みだと50円或いは100円引きの映画館というのはけっこうあったので、2回か3回そういうところで映画を観れば元は取れたのだ。
坪内の言説から、上の『地球の歩き方』問題にも被るような箇所を抜き出しておく;

(前略)暴論をはかせてもらえば、当時の『ぴあ』の読者は、ほとんどが、『ぴあ』が創刊される前に主体が(情報誌に対峙する主体が)確立されていた。その上でこその情報誌(カタログ誌)的な主体である。ところが、『ぴあ』以後に生まれた世代は、そのような主体を形づくる前にすでに、所与の物として『ぴあ』が存在していた。そこに一つの断絶があるのではないか(後略)(p.429)

その『ぴあ』の便利は人びとに多くの物を与えてくれた。いや、人びとが『ぴあ』の便利を強く支持したからこそ、『ぴあ』は巨大雑誌へと(さらには巨大産業へと)成長していったわけである。
だが、そこで失われた物もある。
それは(略)経験の一回性である。未知の物と出会う喜びと言い換えても良いかもしれない。
はじめて『ぴあ』に出会った時、『ぴあ』の与えてくれるたくさんの情報は(それはのちの『ぴあ』が提供する情報から比べればとても少ないものだったけれど、私たちにはたくさんに見えた)、とても新鮮だった。その情報の一つ一つが輝いて見えた。いわば、それは、「ハレ」としての情報だった。
しかし、その内、その情報に慣れてしまった。当たり前のように思えるようになった。つまり、「ケ」としての情報になってしまった。
非日常的なものが日常的なものとなり、当初のアウラが消えて行く。
『ぴあ』的なものの便利さを享受しながら、大学生時代(つまり一九八〇年前後の)私は、それに対して懐疑的になってもいたが、その懐疑が決定的になったのは、一九八四年に「チケットぴあ」のサービスがスタートした頃だ。(pp.441-442)
そういえば、以前『シティロード』を1980年代的なものとして言及したことがあったのだが*2、『シティロード』は(『ぴあ』と同じ)1972年創刊である(p.439)。坪内と同じように(p.440)、私は大学に入ってから『ぴあ』を買わなくなって、『シティロード』を買うようになっていた。坪内の場合は、『ぴあ』が隔週刊になったのに対して、『シティロード』が(一旦は隔週刊になったものの、すぐに)月刊に戻ったからだという。それもあるのだが、私の場合は、『シティロード』の映画のレヴューが面白かったということもある。また、情報を『ぴあ』的に蒐集する必要というのをあまり感じなくなってもいた。映画や芝居についての情報は知人を通してけっこう入ってくるようになっていたし、映画館や芝居小屋に通っていれば、チラシ*3も貯まり、けっこうおなかいっぱいの情報は集まってしまったのだ。

さて、『地球の歩き方』の話で思い出したのだが、戦後日本における〈旅行の精神史〉に関して、取り敢えず前川健一『旅行記でめぐる世界』と関川夏央山口文憲『東京的日常』を取り敢えずマークしておく。

旅行記でめぐる世界 (文春新書)

旅行記でめぐる世界 (文春新書)

東京的日常 (ちくま文庫)

東京的日常 (ちくま文庫)

*1:この雑誌は愛読するものではなく、愛用するものだろう。

*2:http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060721/1153451387

*3:当時は誰もフライヤーなんて言葉は使っていなかった。