中上健次『十九歳のジェイコブ』(メモ)

十九歳のジェイコブ (角川文庫)

十九歳のジェイコブ (角川文庫)

先ず主人公の「ジェイコブ」という名前の奇異さに驚く。解説である「ヤコブの梯子、ジェイコブの路地」で斎藤環は、「ジェイコブ」はこの小説が『野性時代』に連載されていた時は「順造」であり、1986年に単行本化されたときに「ジェイコブ」と改められたという(p.251)。やはり、「ジェイコブ」という主人公名は「ユダヤ教」(旧約聖書)と関係があるのか。この小説は、「ジェイコブの眼にモダンジャズ茶店は教会(シナゴーグ*1のようにみえた」という一文で閉じられている(p.245)。
さて、『十九歳のジェイコブ』は『十九歳の地図』のような中上健次の初期小説群とも対応するが、「ジェイコブ」が「竹原秋幸」に、「高木直一郎」が「浜村龍造」に対応しているように、東京に進出した「紀州サーガ」の観がなくもない。
この小説では、視点や時間が目まぐるしく錯綜するのだが、以下小説を構成する幾つかの対立を書き出してみたい。
先ずは、熊野/東京という対立である。熊野は「ジェイコブ」と「高木直一郎」の出自の地であり、彼らはそこを飛び出し、東京に居着かなければならなかった。その意味では、回想の対象、過去に取り敢えずは属す。また、「高木直一郎」と「ジェイコブ」とは(戸籍上では)おじ−甥の関係、実質的には父−息子という関係にある。また、気付いたのだが、ここには使用しているドラッグの違いから、覚醒剤睡眠薬という対立が挟み込まれている。
ところで、この小説はreally real/virtually realという対立によって支配されているとも読める。故郷の熊野を出て東京で倉庫を経営する「高木直一郎」にとって、「東京」とはリアルな東京ではない。曰く、


高木直一郎は人が変わったようにさっきまでの消沈ぶりとはうって変わった機敏さで電話帳を取り出す。電話帳をめくり、目当ての番号を捜しあてたあと電話をたぐり寄せ、膝の上に置き、故郷の方言を使って長々と政治家の噂話からその土地の開発公社にからむ不正の噂話を交わしはじめる。友子*2はその父親の高木直一郎の頭の中に巣喰っているその土地が、現実にほんとうにあるのなら、東京の個々は一体何だろうとよく考えた。父親は東京の地図のあらかたを知らなかった。新宿は上野のそばにあるのかと訊いた事もあったし、高田馬場のそばに青山墓地があると言ったこともあった。だが電話で話している故郷のその土地で起こる事に関しては、高木直一郎は知らないものはなかった(pp.184-185)。
では、「知らないものはなかった」という「故郷のその土地」(熊野)に関してはどうなのか。そのような知識が可能なのは、「其の土地で発行する新聞の三つまでを事務所気付で送らせていた」(p.185)からであり、「電話」を掛けまくっているからである*3。「高木直一郎」は自らを追い出した「故郷のその土地」を「東京」から遠隔的に操作しようとしているのだが、それは現実に「その土地」へ帰還することを断念するという代償を払ってのことであり、つまりはヴァーチャルな「故郷」(熊野)を相手にしていることになる。他方、「東京」は「高木直一郎」にとって現実としての意味を有していない。上で、熊野は登場人物たちにとって「回想の対象、過去に取り敢えずは属す」と書いた。過去は現在進行的に生きられているのではないということにおいて、ヴァーチャル・リアリティに属すともいえよう。「高木直一郎」はリアルな現実から切り離されて、ヴァーチャル・リアリティに浸って生きているともいえる。この小説では「高木直一郎」的なヴァーチャル・リアリティが世界に、例えば「ジェイコブ」の世界に浸透していく過程が描かれているともいえる。小説の叙述では、そもそも「ジェイコブ」の現実感覚も危ういものであった。「ジェイコブ」が鉄バールで「高木直一郎」一家を惨殺するという凄惨な山場を、自らの世界がヴァーチャル化されてしまうことへの抵抗として読むことはできないか。ただ、そうだったとしても、ヴァーチャル化の趨勢は止められなかったようだ;

山の中の寒気のために眼がさえ、昔、子供の頃、秘密のかくれ家をつくった時したように雑草や木の梢を何本も折って体の周囲にかき集めて寒さをしのごうとして、ふと、ジェイコブは、シャブでやられた高木直一郎をみて不愉快だったのはこの事*4だったのだと気づいたのだった。それがいたたまれなかったし、それが自分の血をざわめかせ自分を呼ぶとも気づき、ジェイコブはその草々の中にこもっている霊のようなもの、血糊と精液の中にこもっている魂のようなものが一層濃く強く漂う方へ行こうと向かった。
ジェイコブはそこが一体どこなのか分からなかった。自分がどこへ向かって歩いているのか見当さえつかなかった。夜じゅう、歩き廻った。血は穢れだったが、そうやっていると、血が体のいたるところについている事が、自分がその山や冷えた空気や暗闇がかくしている気高いもの、神々しいものに行きつく条件だった気がした。皮膚にひっかかる雑草の棘、足を取る雑木、顔をはたく梢が、ジェイコブに愛おしくてたまらないとまといついている。
唾液を吸うように夜露を飲んだ。木の梢をかじり、苦い木の実を食った。
幻聴のように風が鳴った。
ジェイコブはそれがことごとく架空のものだった気がした。山で草すべりした子供の時分*5と変わらなかった(pp.242-243)。
ところで、『十九歳のジェイコブ』には、「ジャズ喫茶店」に屯しながら、ほかの連中とは距離を置いている「ユキ」という男が登場する。「ユキ」は大ブルジョワの息子であり、世界そのものを憎悪し、自分の親の経営する会社へのテロと自分の家族の惨殺を妄想している。また、自分のことを「ファシストって言ってくれよ」ともいう(p.153)。しかし、テロは実行されず、「自分の家でコードを体に巻きつけ、感電自殺」(p.217)する。斎藤環は、

それでは本作において、あの三部作*6ではついに果たせなかった「父殺し」が、なぜかくもあっさりと成立してしまうのでしょうか。そのことはおそらく、ジェイコブの親友?ユキの爆弾が不発であったことと関係があります。路地における父殺しの不可能性は、東京における不発の爆弾に対応するでしょう。路地から都会へと位相が変わることで、父殺しが容易に成立してしまうこと。そのことはむしろ、路地というトポスの呪縛がほとんど遍在的なものであるという印象を私にもたらします(p.254)。
と書いている。この是非というか、斎藤のこの言説の意味を殆ど理解できないでいるのだが、ともかく「ユキ」が「ジェイコブ」の分身的な側面を持っていること、この2人が隠喩的な関係にあることはたしかだ。ところで、この「ユキ」のキャラクター設定から全く別のことを想像したのだが、これはこの小説とは全く関係ないので、また日を改めて書くかも知れない。
因みに、「ユキ」が妄想するテロは東アジア反日武装戦線による(当時丸の内にあった)三菱重工ビルへの攻撃をネタとして書かれているし、「ジェイコブ」が鉄バールで「高木直一郎」一家をなぶり殺しにするというのも、1970年代の某新左翼党派の機関紙を読んだことがある人にとっては、あの頃の嫌な?記憶を甦らせるものであるだろう。

*1:原文はルビ。

*2:高木直一郎の娘。「ジェイコブ」の異母妹。

*3:「高木直一郎」が21世紀を生きていたら、インターネットを使っていたよな。

*4:

*5:Cf. pp.5-7.

*6:『岬』、『枯木灘』、『地の果て 至上の時』。