銀座ではなく新宿

加藤典洋*1中原中也(3)」『図書』(岩波書店)832、2018、p.41


書き出しに曰く、


とはいえ、不思議なのは、私が一九六六年、六七年には、高度成長のさなかの新宿で、いっぱしのフーテン風俗*2のなかにいたことである。上京してほどなく、女友達に連れて行かれた新宿の風月堂には不思議な匂いが立ちこめていた。やがてそれがマリファナの匂いであることを私は知る。六六年の夏は新宿の東口広場、ジャズ喫茶、二丁目のバー「DADA」、「LSD」などで夜を明かした。サイケデリックという言葉が行き交う夏、私はフランスの新文学などを読んでいた。
ここでいう「風月堂」というのは銀座に本店がある「東京風月堂*3とは無関係。私の世代においては、一つ前の所謂団塊の世代とその対抗文化に対する羨望という文脈において、屡々、北野武ビートたけし)、中上健次といった固有名詞を伴って言及されていた。
「Place(場所の記憶)」という団塊の世代の方が書いたと思われる頁には、

文化拠点として60年頃から70年代前半の時代の象徴的な存在が風月堂でした。滝口修造白石かずこ谷川俊太郎寺山修司三国連太郎岸田今日子天本英世などなどが集まったと言われ、ジャズが流れる文化的な雰囲気というか雑多というか、いい加減さも相当なもので、70年前後からアングラ、反戦運動新左翼の拠点として名声、轟き、一日中コーヒー一杯でたむろできるというのでフーテンの溜まり場となり、ラリって階段を転げ落ちても追い出されなかったと。常時、アメリカやフランス、ドイツなど外人のヒッピーが30,40人出入りしており、マリファナLSDが売られているという噂も立ち、伝説化しました。麿赤児の話によれば唐十郎と初めて出会ったのは風月堂だったと書いています。女性は10人程度しかいなかったとあります。
 週刊誌にも取り上げられ、全国から若者達が押し寄せ、何時間も店にたむろし、芸術的な雰囲気は薄れ、各種のトラブルから73年に閉店に追い込まれてしまいました。以降、二度とこういう喫茶店は現れず、やがて喫茶店文化は衰退していきます。私も何回か行きました。煙草の煙でもうもうとしていました。混んでました。うるさくはなかったですが、静かという雰囲気は欠片もありません。常連さんが多いところは、あまり居やすいものではありませんが、ここは私のように何かあるのでは、という気分で入った人も多かったです。
とあり*4
また、『東京紅團』というサイトの「びーとたけしの新宿を歩く」という記事には、

新宿風月堂は、三越新宿店南館か建っていた土地(現在は大塚家具新宿ショールーム)の北側、中央通りに面した場所にあった。当初,昭和20年(1945)の暮れに世田谷区祖師谷大蔵に創業し、横山三郎、横山正二によって主として経営されていた。風月食品工業のパン工場で焼いた洋菓子を販売するための店として、昭和22年(1947)正月には開店していたという。……大きく発展したのは、昭和24年(1949)夏の改築後からである。クリーム色でモルタル塗りの曲面を持つ壁、唐草状装飾や大きなガラス窓が美しいモダンな外観で、客席90の店内は白い円柱が中程に立ち、漆喰壁に彫刻が施され、様々な照明器具が灯されて、白壁が明るく広がりを感じさせるものだつた。店内には,豊富な種類のクラシックレコードから客のリクエスト曲が流され、横山氏のもう一つのコレクション、日本の洋画と彫刻作品が惜しげなく何点も飾られた。終戦後の侍しい都会の住宅事情、議論や会話で人間同士のふれあいを求めてやまない当時の風潮のなかで、新宿風月堂には多くの人々が集まるようになった。昭和27年(1952)初頭には、店独自の選曲で、レコードを解説付きで名鑑賞する、レコードコンサートの第1回が開かれた.その当時は,一ケ月のうち25日も訪れる常連が客の8割にのぼったという、連日超満員の様子は、およそ20年先の、昭和48年(1973)の閉店まで続くことになる。(「琥珀色の記録〜新宿の喫茶店」新宿歴史博物館より)
と書かれている*5
子どもの頃、親に連れられて何度か新宿に行ったことはあり、ビルが林立する以前の、淀橋浄水場跡地だった頃の西新宿の風景の記憶もあるのだが、初めて独りで新宿をほっつき歩いたのは「風月堂」閉店の翌年の1974年だった。