久遠実成の

土橋茂樹『三位一体』*1を読んでいて、思い出したのは、『法華経*2のことだ。『法華経』の主題は何かというのは難しく、しかもそのことで宗派的争いに巻き込まれてしまう可能性もなくはない。しかし、釈尊ゴータマ・シッダッタという歴史的な人物だけではなく、超歴史的な存在であることを自ら宣言することが『法華経』の重大なエピソードであることは否定できまい。


法華経の説くところによれば、紀元前五世紀の人間である開祖・釈迦の姿は、ただ地上における限定的なものにすぎない。釈迦の本体は、久遠の過去から久遠の未来まで存続し続ける宇宙的なブッダである。この久遠の釈迦がつねに存在しているのだから、いつの時代の信者も。この釈迦を信仰することで救済が得られる(他世界のブッダを頼りにする必要はない)。仮令世界が劫火に燃えているときにも、信者の心には釈迦が説法している楽園(霊山浄土)が見えるはずだ(『法華経』「如来寿量品」)。法華信仰の場合は、来世における他世界の楽園への往生を願うのではなく、来世を含めて釈迦の救済力を信じることが救済となっている。
(中村圭志『死とは何か』*3、p.210)
「三位一体」を前提とすると、史的イエス(ナザレの大工の息子)は「地上における限定的な」姿にすぎず、その本体は天地が創造される以前から存在していた、久遠実成の基督ということになる。