苗字の確立或いは「名前」の喪失

坂田聡『苗字と名前の歴史』*1において、中世及び近世においては「夫婦同苗字」が主流だったと主張されている(p.147ff.)*2
私はこの主張はかなり妥当性があるのではないかと思っている。勿論、坂田氏も「夫婦別苗字」が少数派ながら存続し続けていたことを否定するものではない(pp.147-148)。そもそも「苗字」というものが確立し、古代以来の「姓」よりも目立つようになったのは、南北朝時代以降の長子単独相続のイエ制度の成立を契機にしてのことであった。また、イエ制度の成立は女性の地位の大幅な下落を伴うものだった。つまり、「苗字」というものの確立と女性の地位の下落は軌を一にしたものだったわけだ。
坂田氏は近江国得珍保今堀郷(現在の滋賀県八日市市)の「十禅師社」(現在は日吉神社)に伝えられた『今堀日吉神社文書』の中の「十羅刹奉賀帳」という1479年の史料を提示している(p.155)。「十羅刹(十羅刹女)とは鬼子母神とともに法華経の受容者を守る一〇人の神女のことで、おそらく、その神像を作る費用を捻出するために、全住民に「奉賀帳」をまわして寄付を募ったのではないかと思われる」(pp.155-156)。この中には多くの女性の名前が見出される。女性たちは自らどのように名乗って、「奉賀帳」に書き込んでいたのか(表18、p.157)。圧倒的多数は、「男性名+「女」」というかたちなのだった。例えば、「刑部二郎女」、「牛二郎女」、「四郎太郎女」というような感じに。それに次ぐのは「童名」そのままというかたち。それから、数としては圧倒的に少なくなるが「法名」。
これは何を意味するのか?


(前略)少女時代の童名を成人後も用い続けることは、大人になっても一人前とはみなされないという事実を意味する。確かに、鎌倉時代においても生涯童名を使わざるをえない女性は存在したが、それはあくまでも一部の女性に限られていた。貴族や武士の女性はもとより、一般庶民レベルの女性でも、氏女型の名、排行+女型の名、〇〇女房型の名などが、おのおのそれなりのパーセンテージを占めていた(後略)
一方、室町時代、特に戦国期になると、文書などに見える数少ない女性名のうちの、かなりの部分が童名となる。これは、女性の社会的地位が低下し、子どもとともに「半人前」扱いされるようになったことのあらわれ(「女・子ども」視)だと思われる。(pp.16-161)

(前略)男性名のあとに「女」(「妻」「母」「娘」の時もある)をつけた一連の名前もまた、女性の社会的地位の低下を序実に物語っている。なぜならば、このような名の登場は、家を代表する家長――夫であれ父であれ嫡男であれ――との関係性で、女性が把握される事態が進行したことを示すからである。
つまり、こうなると女性はみずからの名前を喪失し、夫や父親らの付属物とみなされることになったわけで、おそらく、この段階の女性は、公的には「男性名+女」型の名を、私的には成人してもなお童名を名のっていたのではないかと思われる。(p.161)

(前略)宮座のメンバーになることができない女性は、生涯、子ども時代の童名でとおさねばらならず、その点で、年齢階梯にもとづくステップアップによって名前を変え、子ども一人前の大人=社会「人」へと成長を遂げる道が開かれている男性(正確には宮座成員の男性)とは明らかに区別された存在だった*3
また、家制度が確立し、家長である男性のみが家を代表するようになると、宮座だけでなく、原則としてすべての公的な場に参加しえなくなった女性は、〇〇の妻、☓☓の母、△△の娘といった具合に、家長たる男性の付属物として表象され、みずからの名前すら名のれないケースも増えた。(p.181)

*1:Mentioned in https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2021/12/22/110006 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2021/12/25/165742 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2021/12/29/210327

*2:岡野友彦『源氏と日本国王』もこの主張を共有している。

*3:再度記しておくが、「宮座」は全日本的に見られる制度ではなく、あくまでも関西特有の制度である。