信じること、そして伝統を巡って

http://d.hatena.ne.jp/eirene/20070818/p3



(前略)私の実感に即して言うと、信仰と懐疑は「あちら立てれば、こちら立たず」という意味で相反するものではない。信仰は懐疑という「不純物」をいささかも含まないものではない。

 信じることは、信じている内容の真偽を問い直すこと、信じている内容の正しさをラディカルに疑うことを通して、より本物に近づいていくのではないか。あるいは、信じるという行為は懐疑を通して深まっていくプロセスとみることもできるのではないか。


そもそも、なぜそのような信仰が成立したのか。その信仰のことばは、私の人生にとり、あるいは人間社会全般にとって、どんな意義をもつのか。そういった問いかけを抜きにして、私は創造神を信じることができない。信じるという行為は、そうした疑問を手放さず、自分の実人生のただなかにおいて、教えの真偽を問いただしていくことを通して可能になるのではないか。
たしかに、以前言及したように、「信じる」ということは独特の問題を孕んでいる*1。拙文を引けば、

対象が明証的に私に現前しているとき、合理的な根拠をもって判断しているとき、believeという動詞を使う必要はない。それどころか、believeを使うことによって、私の判断の根拠のなさ或いはその薄弱さが露呈されてしまいかねないのだ。
ということになる。さらに、宗教に関連して、

宗教に話を移せば、〈信〉が強調される場合、同時に〈不信〉が喚起される。〈信〉と〈不信〉とを分かつのは合理的な根拠ではない。或いは、合理的なことを信じるのは信じるに値しないということになる。或いは、合理的な根拠に、さらには素朴な直観に逆らって、信じなければならない。

宗教、特にアブラハムに源を持つ宗教はこのような不条理でしかあり得ない〈信〉を要請する。但し、日本の神道ではそのような決断(判断)はそもそも問題にならない。そこで要請されるのは神を信じることではなく、敬神であるから。

とも書いた。
さて、eireneさんの方に戻ろう。また曰く、

私自身は「キリスト教」を信じる必要はないと思っている。もちろん信じてもよいが、信じることよりも、キリスト教の伝統につらなる人々が、人間や社会のあり方について、どういう問いかけをしてきたのか。どういう点が優れており、どういう点で間違いを犯してきたか。そのことを単にキリスト教キリスト教徒に固有の問題ではなく、人間共通の課題として考えて話し合うことの方が大事だと思っている。

 私が学生時代に聖書を読み始め、キリスト教を学んだのは、それを「信じたい」と思ったからではなかった。長い伝統のなかで、人間の生き方に関する重要な問題提起がなされ、議論が積み重ねられたことに興味を抱き、それが面白いと思ったからである。

 いろいろと学んできて、「キリスト教」は私にとって信仰の対象にはならないと最近思うようになった。歴史を振り返ると、キリスト教会・キリスト教徒はいろんな過ちを数多く犯してきた。そういうことに全部目をつぶり、キリスト教の総体を絶対の真理として信じることは、私にはできそうもない。

 では、キリスト教は、自分にとって何なのかといえば、それは自分が物事を考えて生きていく上で参照し、かなり大切にしている一つの「知的伝統」である。「キリスト教=伝統」という見方がいちばんしっくりくる。その伝統のなかに、いろいろ優れた人や、面白い人、とんでもない人、悪人がいる。かれらとの交流を通して、いろんなことを学び、自分が養われている感じはする。

ここには3つの論点があるように思われる。「信じる」(という動詞)の「奇妙奇天烈さ」を考えたときは、「信じる」ことが生起する能動性/受動性については考慮しなかった。しかし、私たちは能動的に(自由意志によって)信じることができるのかというのは問う必要があるだろう。これは(本源的受動性を巡る)哲学的な問いであると同時に、仏教徒としての佛教的な問いでもある。罪障に塗れた衆生が仏法を信じることは可能なのか。これは、親鸞にせよ一遍にせよ、浄土門においては切実な問題である筈である。弥陀の本願を信じることができないが故に〈自力〉に奔ろうとする云々。自分を含む人が如何にして法華経の行者となるのかを巡って、日蓮も同じような思索をしていた筈である。
また、「伝統」へのコミットメントという問題。http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070430/1177960893で、

伝統に言及すること、それは私自身を伝統の共同体のメンバーとして同定することである。伝統に言及することは、伝統を(ポジティヴにであれネガティヴにであれ)保持し・伝承することであるから。また、そのことによって、伝統は日々、さらには時々刻々更新される。
また、

例えば、儒学という伝統。それは『論語』とか『易経』といったテクストだけではない。数千年続いてきて・さらに・現在も続けられているそれらに対する註釈、コメンタリー、批判等々の実践(の痕跡)の総体である。これは、聖書的伝統とかタルムード的伝統という場合でも同様。
と書いた。「伝統」に関しては、「信じる」か否かとは別の問題が生起する。「伝統」はそれに対する否定的・肯定的な一切のコメンタリーを包含するものであり、私が或る「伝統」について何かしらのコメントをすれば、それはその「伝統」に(良きにつけ悪しきにつけ)何かを追加してしまうこと、更にいえば(小さいにせよ大きいにせよ)「伝統」を変容させてしまうことになる。これは量子力学的な観測問題或いは人類学における異文化理解の問題とも関連するのだろうが、ともかく「伝統」に言及した途端、私はその「伝統」と無縁ではなくなってしまう。
キリスト教の総体を絶対の真理として信じることは、私にはできそうもない」という。ここで書かれていることとは文脈を異にするかとは思うが、或る「伝統」にコミットしつつ、その中の或るものをどうしても信じることができないということはある。例えば、基督教徒であっても、同時に科学という伝統にもコミットしている現代人にとって、処女受胎というのは俄に信じ難い。これはブルトマンを初めとする神学的非神話化の作業とも関連しているのだろうが、それでも、否定的・批判的ではあれ、「伝統」にコミットすることにはかわりないといえるだろう。視点を変えてみれば、「伝統」というのは屡々想像されるようにのっぺりとしたものではなく、常に何が本来的で何が非本来的なのか、何が排除され何が包摂されるのかという争論が渦巻いている場であり、そうした争論の渦巻きが伝統であるといえる。話を「信じる」問題に回付させれば、「伝統」への否定的コミットメントを動機付けているのは実は根本的な信であるといえるだろう。ロレンスの『黙示録』批判を動機付けていたのは、『福音書』のヨハネと『黙示録』のヨハネが同一である筈はないという信ではなかったか。


「信じる」と「伝統」の問題に関しては、かなり以前に言及したことがある


Giles Fraser "The idolatry of holy books" http://www.guardian.co.uk/print/0,3858,5263987-103677,00.html *2
Karen Armstrong "Unholy strictures" http://www.guardian.co.uk/print/0,3858,5259900-103677,00.html *3


もマークしておく。