『日本民衆文化の原郷』(by 沖浦和光)

日本民衆文化の原郷―被差別部落の民俗と芸能 (文春文庫)

日本民衆文化の原郷―被差別部落の民俗と芸能 (文春文庫)

先週、沖浦和光『日本民衆文化の原郷 被差別部落の民俗と芸能』を読了。


序章 古い歴史のある部落を歩く
I章 熊野街道筋に残る民俗芸能
II章 デコ舞わし巡業の三百年
III章 鵜飼で生きる川の民
終章 日本文化の地下伏流


あとがき
解説 アジア周縁世界の旅人(國井哲義

この本は元々1984年に解放出版社から刊行されたもの。なので、ここに描かれている被差別部落の生活は1980年代前半のものだということになる。
この本は被差別部落に伝承された藝能を中心とした民俗文化を訪ねた紀行書ということになる。主に採り上げられるのは、和歌山県湯浅町日高市の「春駒」(I章)、鳥取県円通寺の人形芝居(II章)、広島県三次の鵜飼(III章)であるが、藝能だけでなく、その藝能を伝承する部落の生業や歴史的経緯の記述にも頁が割かれているし、そのほかにも藝能史・宗教史に関する興味深い記述が鏤められている。
この本を貫いているのは次のような問題意識であろう;

しかし、被差別民の生活の歴史は、みじめで貧しく、救いのない世界だったのか。悲惨一色で塗りつぶされてしまう、絶望の世界だったのか。民衆史の栄光の一側面を担うものは、何もなかったのか。否である。中心から離れた周縁、上層から切断された底辺におかれてはいたが、それゆえにかえって、既成の秩序*1を覆して、新しい何ものかを創造しようとする混沌*2の潜勢力をひそめていたのである。
かつての部落の生活は、表からみれば、差別と抑圧のもとでの暗黒の世界に見えるかもしれない。しかし、そこにはまた、豊饒な闇というべきものがあった。さまざまの悲しみと苦しみがあった。しかしまた、差別や抑圧と闘いながら、人間としての生がキラリと光る側面も少なくなかった。それぞれの部落には、人びとが生き抜いてきた歴史があり、伝統的な民俗と生業があった。
古代・中世・近世と歴史は移り動いていった。だが、いつの時代においても、その社会の産業・技術・交通・文化・芸能・民間信仰などの諸領域で、実際にその直接的な生産者、製作者、伝播者として働いてきたのは、多くの名もなき民衆だった。しかもそれらの民衆の中で、賤視されながら、いや賤視されているがゆえに、もっとも過酷な労働を強いられてきたのは、それぞれの時代の被差別民であった。私たちは、このような民衆史の視座をあらためて踏まえつつ、これまでの日本の歴史を根底から見直していかねばならない。(pp.12-13)
また、著者の民俗宗教・民俗藝能に対する関心にはその幼時の記憶も関係していることは記しておくべきだろう;

私は幼少の頃、摂津の西国街道筋の小さな村に住んでいた。熊野の那智の滝に次いで、西国第二の名瀑といわれた箕面の滝のある村だった。(略)
西国街道は、箕面の山並の裾野を通って、京都から山陽道に通じる古い街道である。牛や馬にひかれた荷車が、いつも忙しく往来する狭い道だった。中世からの由緒のある古い街道だったから、遍路・虚無僧・山伏、それにいろんな旅芸人がこの街道を通った。一九三〇年代のはじめの頃であった。
そのような遊行者・旅芸人が通るたびに、子どもたちはそのあとをついて歩いた。虚無僧は、いったいどんあ顔をしているのだろうかと、深編笠の下から覗き込んだりした。
山伏の吹き鳴らす法螺貝を持たせてもらったこともあったが、あの大きい貝をもてあまして、とても音を出すどころではなかった。子どもたちにいちばん人気のあったのは、角兵衛獅子と猿回しだった。一日中そのあとを追っかけて、隣村まで行ったこともあった。
薄墨の絵のようにしか残っていないその頃の記憶の中でも、今でもはっきり憶えているのは、「六部さん」と呼ばれた遊行者だった。
正確には「六十六国諸国廻国」と呼ぶのだが、一年に何回かこの街道筋を通った。年老いた巡礼姿が多かった。うらぶれた鼠木綿の着物に、手甲と脚絆をつけ、足は草鞋ばきであった。頭には、たしか菅笠のようなものを冠っていた。手には大きい数珠を持ち、金剛杖をついていた。鈴や鉦を鳴らしながら、一軒ごとに門付けをして歩いていた。
この六部遊行は、十四世紀の書である『太平記』に出てくるから、鎌倉時代にはすでに行われていたのであろう。全国を行脚しながら、自分が書き写した法華経を全国六十六ヵ所の霊場に納めて回るところから、これらの僧が「六十六部」と呼ばれた。
しかし、江戸時代に入る頃には、そのような行脚僧の姿も見られなくなった。その代わりに現われたのが、下層遊芸民の六部であった。古い恰好をそのまま残していたが、諸国を放浪する貧しい流人たちの、なんとか生きていくための門付け習俗になっていったのである。(pp.283-284)
本書で記述されている生業や藝能に具体的に触れる余裕はないのだが、ひとつだけ。鵜飼に関して、漁民それ自体が「古代からの海人の系譜を引く者として」、また「仏教の影響」によって、賤視されてきたと述べられている(pp.219-220)。その一方で、紀州被差別部落民は紀州の三大産業である「湯浅の醤油」、「有田蜜柑」、「漁業」から伝統的に排除されてきた(pp.80-81)。なので、或る老婆は

すぐそばが海やのに、漁業権が全然ないさかい、磯釣りに行っても漁師に追いかけられてナ。そやから鰯一匹がほんまに御馳走で、正月の尾頭付きいうても、鰯か秋刀魚やったナ(p.73)
と語る。

*1:「コスモス」というルビ。

*2:「カオス」というルビ。