仙台と水戸

松本清張『草の陰刻』(1965) の舞台は宇和島。大洲と八幡浜の間にある「夜昼峠」を調べてみたら、標高は低いのに「のびあがり」が現れて人の往来を阻むといわれた嶮路だった」https://kj-books-and-music.hatenablog.com/entry/2025/08/10/121238



四国における「アクセント」について。


四国は多くの地域が京阪式アクセントの言葉を使うが、愛媛県の中心である県庁所在地の松山の人は、独自の変化を遂げた讃岐の言葉とは違って、京阪により地理的には近い讃岐よりもむしろもっと京阪に近いアクセントの言葉を話す。しかし松山から西南に離れた大洲になると、一型アクセントといって「橋」と「箸」の発音の区別がない言葉を話すらしい。つまり松山と大洲ではアクセントが違うが、大洲の言葉は京阪式アクセントでも東京式アクセントでもない。そして大州より南の宇和島になると、アクセントが松山あたりとは反転して東京式アクセントの言葉になるようだ。前回の記事で取り上げた山梨県の奈良田とはちょうど逆のパターンで、奈良県の十津川と同じパターンだ。四国で東京式アクセントの言葉を話す地域として知られているのは、なお宇和島などの愛媛県西南部およびそれと隣接する高知県西部の幡多(わた)地域で、この両地域を合わせた地域の言葉を「渭南(いなん)」方言ともいうらしい。「以南」が語源との説もあり、要するに四万十川以南の「地の涯」の言葉というわけだ。もっとも、甲州を舞台にした歴史小説では地域の方言に言及した清張*1も、こうした四国南西部の方言については何も知らなかったのかどうか、愛媛県の言葉をすべて「伊予弁」で一括りにしている。
これは、宇和島藩(伊達家)が仙台の伊達家の分家だったからなのかと思った。しかし、讃岐の高松藩松平家)は水戸徳川家の分家だったのか。このことは高松の方言に影響があるのだろうか。考えてみれば、土佐(山内家)にしても徳島(蜂須賀家)にしても、皆、非四国的な出自の大名だ。司馬遼太郎は、土佐は200年以上も(山内という)「進駐軍」の「占領」下にあったと言っていたが*2、考えてみれば、四国においては何処も「進駐軍」による統治だったわけだ。さらに考えてみれば、日本全国、多分薩摩藩佐賀藩を例外として*3、譜代にせよ外様にせよ、大名と知行地の関係は近世的なものなのだった。大名と方言とは関係はないのか? もし大いにあるとすれば、日本の多くの土地で尾張三河風の言葉が話されている筈だが、そんなことはない。或いは、封建的身分の差異を考慮すれば、少なくとも武士身分の言葉は先祖の本貫の特徴を保っていたのか? それとも、土着の領民の言葉に同化していったのか?