鎌倉以来



白クマ


地生えの中の地生え、といえる存在の島津氏の場合に鹿児島市がどうなるのかも興味ありますね。

たしかに、加賀の前田も仙台の伊達も萩の毛利も江戸時代からであるのに対して、島津の場合は鎌倉時代の初期から薩摩(及び大隅)を支配してきたということはありますよね。
現在の島津本家の当主については、例えば、


「島津家の子孫は現在も続いている?皇室にも繋がりがある?島津製作所との関係は?」https://histonary.com/shimadzu-shison/


この記事では、現当主の島津修久氏*1までしか記述していませんが、修久氏は既に85歳であり、数年以内に長男の島津忠裕氏*2が第33代目の当主になる可能性は高いと言えます。
薩摩藩と現在の鹿児島との関係で思い出したのは、木曽三川治水工事を指揮した薩摩藩家老、平田靱負*3の子孫である平田清明という経済学者*4京都大学を定年退職して、鹿児島経済大学*5に赴任したとき、地元ではマルクス経済学云々ということよりも、 平田靱負の子孫が帰還したということで盛り上がったということがあります。
さて、話は飛んで、島津製作所*6と薩摩の島津家との関係について;


「「島津」の姓と"丸に十の字"の社章の由来とは? 9月19日は「苗字の日」」https://www.shimadzu.co.jp/today/20200919-1.html


「創業者である島津源蔵は、薩摩藩の島津家との血縁関係は」ない。


"丸に十の字"の社章は、島津源蔵が、島津家の家紋を商標として定めたことに由来します。島津源蔵の祖先は井上惣兵衛尉茂一といい、1500年代後半に播州兵庫県南西部)に住んでいました。

薩摩の島津義弘公が、京都の伏見から帰国の途上に、豊臣秀吉公から新たに拝領した播州姫路の領地に立ち寄った際、 惣兵衛は領地の検分などに尽力し、その誠意に対する感謝の印として、義弘公から"島津の姓"と"丸に十の字(くつわ)の家紋"を贈られたと伝えられています。