松山の松江さん

寺田実穂子「襲ってきた男を刺した〝罪〟200年の間に起きた「生き人形」の変化」https://withnews.jp/article/f0201118000qq000000000000000W0fn10101qq000022079A


こんなことが実際に起こったんだね!


愛媛県立図書館の閲覧席で、茶色く色あせた薄い本を開きました。郷土史家の故・景浦直孝氏が書き留めた1942年発行の古い本で、貸し出し禁止のシールが貼ってあります。

墨で手書きされた古書を読むと、次のような話が書かれていました。


――江戸時代後期、松江は、南予愛媛県南部)にあった大洲藩士・井口瀬兵衛の次女として生まれました。父はわけあって大洲藩を免職となります。一家は、松山に移り住み、暮らしを支えるため、父は道場で剣術を教えていました。その道場に通っていた男が、松江を気に入ります。松江に言い寄り、しつこくつきまとうようになった男は、ある日、父の留守中に家に押し入り、松江に襲いかかりました。松江は、抵抗の末、隠し持っていた脇差しで男を刺し殺してしまいます。帰宅した父に、松江はこう言いました。「いかに悪人であっても、人を傷つけた罪は許されない。首をはねて下さい」。父は娘の望みを聞き入れ、浜辺で松江の首をはねました。松江18歳。文化10(1813)年12月8日の夜でした。父娘の壮絶さを思い、当時の松山藩主は、葬儀の資金として米を贈り、松山藩に仕えるようすすめましたが、父はそれを断りました。その後、大洲藩主が領内に住むことを許し、一家は松山を去りました。
彼女の墓は現存し、父親が娘の首を落とす直前の場面を再現した博多人形も近くの「松山市三津浜小学校」の「郷土室」で公開されているという。さらに、彼女は「松江町」として地名にその名を残しているのだった*1

*1:See じゅん「「松山市の地名・町名由来」・ 「松江町・喜代町・道後姫塚」 29」http://2103center.blog112.fc2.com/blog-entry-1592.html