「余」という主語など

興膳宏『中国名文選』*1から。
その第12章で取り上げられているのは李清照*2の「金石録後序」。宋朝北宋南宋)の時代を生きた李清照は『中国名文選』で取り上げられた唯一の女性である。


長居中国の文学史上には数多くの詩人が登場するが、女性の詩人となると、その数は著しく限定されるし、伝わる作品も少ない。唐の魚玄機・薛濤は確かに女流詩人として名を知られているがあ、それも男性の著名詩人との交わりが小説的な背景をなしており、彼女たちの詩が決して絶対的な高い評価を受けていたわけではない。女性が男性に伍して活躍する道を閉ざされていた旧社会では、大多数の女性にとって、才能を発揮する場は事実上なかった。それに、わが平安朝文学のように、仮名文字という女性にとって有利な条件をもたらす文字媒体も存在しなかったから、女性の文学が独自の存在を主張する機会も生まれなかった。
その中で、ほとんど唯一の例外といってもよい存在が、(略)李清照(一〇八四‐一一五五ごろ)である。李清照は北宋末期の詩人で、易安居士と号し、ことに曲に合わせて歌辞を作る「詞」(詩の一体で、「詩余」ともいう)の作者として優れる。もとは文集七巻・詞集六巻があったが(『宋史』芸文志による)、散佚し、いまでは四十首余りの 詞が伝わっている。作品数は少ないが、人口に膾炙する名句も多くあり、全文学史を通じて、女性詩人の随一とされる。(p.202)

李清照は、『洛陽名園記』の著者で、高名な学者・文人だった李格非のむすめとして、済南(山東省)に生まれた。彼女が深い古典の教養と高い詩文の創作能力を持っていたのは、家庭環境の中で培われたところが大きい。十八歳で、金石学者の趙明誠と結婚した。金石学とは、古い金属の器物や石碑などに刻まれた文字・文章を研究する学問で、彼女もまた夫の学問への関心や熱意を共有していた。二人は協力して金石書画の資料収集と鑑定研究に努め、二十数年を経て、その成果を『金石録』三十巻にまとめた。現在も存する金石学の古典である。かつて欧陽修は金石文研究の成果『集古録』十巻を著わしたが、『金石録』はそれを上回る新たな業績として貴重される。趙明誠一人の著作になってはいるが、事実上は夫妻の共著ともいうべき成果である。
靖康元年(一一二六)、北方にあった女真族の国家である金が大挙して南侵し、翌二年、宋の都汴京(開封)を陥れた。いわゆる靖康の変である。その年の三月から四月にかけて、宋の二代の天子徽宗・欽宗が北の金国に連れ去られて、やがて宋は都を江南の臨安(浙江省杭州市)に移す。囲碁南宋と呼ぶ。この国を挙げての大混乱に当たって、趙明誠・李清照夫妻にもまた過酷な運命が待ちかまえていた。青州山東青州市)にあった邸は焼かれ、膨大な資料はほとんど灰燼に帰した。辛うじて一部の収集品だけを持ち出したが、それだけでも車十五両に上ったという。二人は江南に生活の場を移したが、二年後に夫は建康*3で病没した。
夫の死後、江南各地で流寓の日々を過ごしたが、五十二歳のとき、夫と過ごした往時を回顧して、この「金石録後序」を著わした。彼女が『金石録』を世に出すことに努めたことによって、この書ははじめて公的にその価値を認められたのである。ここには、夫妻が一つの目的のために、互いに助けあいつつ過ごした在りし日のことが、淡々と、しかし深い感慨をこめて、細やかに記されている。(後略)(pp.202-204)
「金石録後序」は「余建中辛已、始帰趙氏」という文から始まる(Cited in p.204)。「余」って自称するんだ! まあ、それほど驚くべきことでもないだろう。日本でもけっこう使われてきた一人称なのだから。内村鑑三の『余は如何にして基督信徒になりにし乎』とか。
なお。李清照については、井波律子『破壊の女神』*4でも言及されている。