鯉江良二

外舘和子*1常滑が育てた陶芸家と日本」『毎日新聞』2022年11月13日


愛知県常滑市*2と鯉江良二を巡って。


INAXライブミュージアムの「窯のある広場・資料館」では、日本の代表的な前衛陶芸家の一人で常滑出身の鯉江良二(1938~2020年)の作品と「再会」した。自身の顔を型取りした土が徐々に崩れていく「土にかえる」、反戦メッセージをうかがわせる「証言(ミシン)」などが確かな存在感を示し、彼もまた常滑の重要な歴史の一部になっていることを伝えていた。
鯉江は生前、「俺、日本の有名な建物を結構作ったよ」と語っていた。彼は10代の頃、土管製造所のアルバイトで右手の指の一部を失った後も、常滑高校の窒業科に学び、一時期タイルの会社で働いている。土管もタイルも明治以降の常滑がけん引してきた窒業製品であり”清潔で美しい近代日本”を築くために欠かせないものであった。例えばフランク・ロイド・ライトの建築で知られる帝国ホテルの日本館の外装タイルは、常滑の陶工たちが製作している。世に知らっるのは建築家や建物の名前だけだが、実際にはその材料を準備した測人や、建築作業に従事した人々がいる。鯉江のいう「有名な建物を結構作った」とは。建築の意匠性を左右する重要な素材であるタイルの生産に従事した、ということなのである。
鯉江はその後、(略)先鋭的な作品を精力的に発表し、海外でも各地でワークショップを行うなど国際的に活躍した。89年には愛知県立芸術大学助教授となり、学生たちには「たくさん失敗しなさいよ」と指導していた。(後略)

常滑は、陶磁史をさかのぼれば中世六古窯の一つであり、堅牢な炻器質の壺などを日本各地に流通させた。19世紀には、土管やタイルに先立ち、急須生産も始まり、戦後は三代山田常山のような急須の人間国宝も現れている。常滑のろくろによる高度な急須成形の技術は、鯉江が前衛的作品の一方で手がけたマジシャンのごとき軽快なろくろテクニックによる器とも通じる。
窒業地常滑の持つ懐深さ、豊かさを、どの時代の作り手たちも吸収し育ってきた。いかなる個人も壮大な歴史の中に生きていることを、常滑は町全体で気づかせる。鯉江良二のような陶芸家のたくましさのルーツもまた、この常滑の歴史と風土にある。
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西川智成「追悼・鯉江良二氏 「誇り高く土に還る」」https://note.com/nakaderagama/n/n99e88903e6c5
Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AF%89%E6%B1%9F%E8%89%AF%E4%BA%8C