「理工」の時代

山本義隆『私の1960年代』*1から。
「一九六〇年は、安保闘争の年であったと同時にいわゆる理工系ブームが始まった年でもあります」という(p.14)。


私が大学に入ったのは(略)一九六〇年ですが、その年、戦後初めて東大の理科系の一学年の学生定員が一五〇人増えています。当時の東大の教養学部の理科系には理科I類と理科II類があり、理科I類は工学部、および理学部の数学系の学科つまり数学と物理と化学、理科II類は医学部や薬学部、農学部、そして理学部の生物関係の学科が、その大体の進学先です。その当時、今のように理科III類というのはありませんでした。この理科I類の定員は戦後ずっと四五〇人だったのですが、六〇年に初めて六〇〇人に増えたのです。寮で一学年上の人たちから、お前たち、一五〇人の定員増のおかげで入れた口だろうなどと皮肉を言われたのを覚えています。そしてそれからは、毎年のように理科I類の定員は増えています。
東大だけではありません。日本全体での理科基礎科学系の学生数は、一九六〇年から一九七〇年までの一〇年間に、一学年あたり物理学と数学は約六五〇からそれぞれ二七〇〇と二八〇〇に、化学は約九〇〇から二七〇〇に増加しています*2。このように一九六〇年代の理工系ブームは、端的に学生数の増加に見て取れますが、ブームといっても、もちろん自然発生的なものではありません。日本の政財界の支配層の興梠kなイニシアチブで創り出されたもので、高度成長に向かう助走は、実際には一九五六年くらいから始まっていました。(pp.14-15)
「繊維産業を中心とする軽工業から重化学工業への転換の糸口」(p.15)。

一九五五年に閣議決定された「経済自立五ヵ年計画」は、日本の輸出を重化学工業中心に切り替えることを目的とするもので、そのため「科学技術の振興」が謳われています。実際、五五年には日本生産性本部が、翌五六年には原子力委員会が発足し、原子力三法が成立し、原子力推進を目的として作られた科学技術庁が業務を開始しています。岸内閣成立直後の五七年末の「新長期経済計画」では、電子技術やオートメーションや高分子化学の研究の推進、そして理工系学生の八〇〇〇人もの増員が掲げられています。五九年には内閣に科学技術会議が設置され、一九六〇年決定の所得倍増計画に合わせて、科学技術振興10カ年計画が作られました。この頃、めぼしい企業はそれぞれ中央研究所を造り始めます。
これらの諸政策のなかで、私たちにとってもっとも直接的に影響し、具体的に目に見える形で現れたのが、理工系人材養成計画の拡大と理工系大学の拡張だったのです。(pp.15-16)
1960年に東大工学部に「原子力工学科」と「電子工学科」が置かれている。

(前略)その二学科の新設は、研究教育機関としての大学の内在的論理から生まれたものではなく、財界と官界のイニシアチブによるものであり、そのことはすでにこの時点で日本の支配層が、石油から原子力へのエネルギー政策の、そして重化学工業から先端技術産業への産業構造の、将来的な転換を予見していたことを示しています。一九六〇年は、安保闘争の年であったと同時に、三池闘争*3の年でもあり、このとき日本の資本主義は石炭から石油へのエネルギー政策の転換を遂げたのですが、日本の支配層は更にその先を見通していたわけです。(p.17)