「生命」(by 森岡正博)

森岡正博*1「世界哲学史から「生命」を考える」(『生命の哲学へ!』1)『ちくま』516、2014、pp.20-23


少しメモ。
「生命」の3つの側面。
(1)「ものごとが「生成」と「消滅」を繰り返す勢いや流れ」


植物の種から芽が生えて、成長し、やがてそれは大きな花を咲かせる。このように、種の中に隠されていたものが、みずからの姿をありありと現わして自己展開する様子を見るとき、私たちはそこに生命というものを実感する。生命が生成してくる流れは途絶えることなく続き、ひとつの個体が消滅したとしても、そのあとには他の個体が後を追うように生成してくる。このような生成と消滅の流れは、植物や動物だけに見られるのではなく、地球上の自然現象や、人間の生み出す文化や文明に対しても言われることがある。
古代ギリシアでは自然のことをピュシスと呼んだが、それはすべてのものがそこから生成し、そこへと消滅していくところの万物の根源としても捉えられていた。あらゆるものが生み出され。そして消滅し、また生み出されるという大いなるピュシスの流れの全体のことを、私たちは「生命」として感受することがあるだろう。生命は自然と密接に関連している。アリストテレスは、可能性として潜在していたもの(デュミナス)が、その能力を開花させて現実のものとなる(エネルゲイア)という構図を提出しているが、ここに見られるプロセスもまた生命的なものと言える。(p.22)

(2)「生物を「生き生き」とさせているもの


植物や動物などの生物は、生命を持たない物体にはないような、「生き生き」としたあり方をしている。私たちは、生物を「生き生き」とさせているようなエネルギーや原理のことを「生命」と呼んできた。「生き生き」しているものは生命を持った「活物」であり、「生き生き」していないものは生命を失った「死物」であるという生命観がある。「生き生き」したものは、それを「生き生き」とさせている何かを内在させているのであり、それは精気と呼ばれたり、気息と呼ばれたりした。
デカルトは、人間の血管や神経の内部を動物精気なるものが流れていると考えており、そのエネルギーによって人間の身体は感覚したり運動したりできるとしたのであった。たとえ首が切られたとしても、その人間の身体は動物精気によってまだ少しのあいだ動作を行なうことができるというのである。現代の生命科学はそのような実体を否定した。しかし私たちが生物や人間を見るときに感じてしまう「生き生き」した生命の原理のようなものを、私たちの日常感覚はまだ捨て去ってはいないように思われる。(pp.22-23)

(3)「生まれ、成長し、再生産に関与し、老い、死んでいくというあり方」


人間を含むあらゆる生命体は、生まれ、成長し、再生産に関与し、老い、死んでいくというあり方をして、この世に存在している。このあり方のことを「生命」と呼ぶのである。この意味で「生命」は「存在」とまったく異なる。そもそも成長と消滅を繰り返すつかのまの「生命」の背後にあって、その生成と消滅の影響をまったく受けずにいつまでも持続するものとして、「存在」という概念は登場したからである。古代ギリシアにおいて、「生命」よりも「存在」がより根本的であるという転換がなされ、その後の西洋哲学を長く支配した。「生命の哲学」とは、この秩序に疑問を呈し、「存在」よりも「生命」をより根本的なものとして考える哲学のことであると言える。
人間を含めた生物個体から見れば、個体の生命は死によって終わるのであり、それは限りある生命だということになる。と同時に、生命を生み出す生成の流れのほうから見れば、生物個体の死を乗り越えて綿々と続いていく果てしない流れこそが生命であるということになる。このような「限界」と「永続」の両面を備えたものが生命であると言えるのである。(p.23)
「永続」の「生命」に思考がのめり込むことの危険については、例えば木村敏『心の病理を考える』を見られたい。また、森岡氏の『生命観を問いなおす』は俗流の生命礼賛的な思考に待ったをかけた本ではなかったか。 
心の病理を考える (岩波新書)

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