「分析哲学」/「解釈学」

今こそアーレントを読み直す (講談社現代新書)

今こそアーレントを読み直す (講談社現代新書)

仲正昌樹『今こそアーレントを読み直す』*1から抜書き。


では、「哲学」と「言語」はどのような関係にあるのだろうか。「哲学」が抽象的な諸概念を駆使しながら、誰も受け容れざるを得ない普遍的で唯一の真理を求めるものだとすれば、そうした「言語」の多様性は「哲学」にとっても障害になる。使っている言語によって、基本的な概念がズレていたら、哲学的な「真理」を確定するための正確な議論ができないからである。可能な限り日常言語の曖昧さを取り除いて、厳密な概念によって議論を組み立てよう、ということになる。しかし、”普遍的心理”にはそれほど拘らないで、「哲学は真理を求めているけれど、しょせん人間の不正確で多様性を含んだ言語による営みなのだから、真理探求には限界がある。使っている言語ごとに”真理”が違っていても仕方ないのではないか」という緩やかな見方をすれば、話はかなり違ってくる。後者の場合、むしろ、言語ごとに物事の見え方がどう違うかを「哲学」のテーマにしたらいいのではないか、という考え方も生まれてくる。
(略)前者の見方に従って、厳密な哲学概念や用語法を探求して、哲学全体を言語の面から再構築しようとする潮流を一般的に、「分析哲学analytical philosophy」と呼ぶ。後者の見方に従って、個々の言語体系や伝統ごとに物の見え方がどう異なるのかを調べようとする潮流は、分析哲学との対比で非分析系と呼ばれたり、「解釈」に重きを置くことから「解釈学hermeneutics」と呼ばれたりする――狭義の「解釈学」は各種の古典分権を読解するための方法論であるが、それと関連付ける形で、言語の違いによる世界解釈の違いを問題にする哲学を広い意味で「解釈学」と呼ぶことがある。(pp.83-85)

アーレントは、分析哲学系か解釈学系かという分類で言えば、恐らく後者だろう。ただそこで少し注意がいるのは、解釈学系の議論には、特定の言語共同体の中で形成される「物の見方」をその共同体にとっての必然性であるかのように見なす傾向がしばしば見られる点だ。「言語」とそれを使用する人たちの「思考」は一体であるという考え方は、ともすると、「民族あるいは国民ごとに固有の『物の見方』があるので、外来の文化の影響は排除し、言語を中心とする文化の純粋性を守るべきである」という排外的な思考につながりやすい。母国語の影響は強いので、そういう発想は結構説得力をもってしまい、ナショナリズム運動に利用されやすい。ヘルダーの言語観の影響を受けたドイツ・ロマン派の思想家の中には、ドイツ語文化を再発見しようとする関心から、ドイツ・ナショナリズム運動の担い手になった者も少なくない。ハイデガーも、ナチス政権期に、ドイツ語の空間の中で成立するドイツ人にとっての「祖国的存在」について語っていた――これについて詳しくは、拙著『〈隠れたる神〉の痕跡』(世界書院、二〇〇〇年)参照。
アーレントは当然、そういう閉じた言語空間の中に閉じこもってしまうことには反対である。自他の言語共同体を分ける線をはっきり引いて、「内部」を均質化・純粋化しようとすれば、「物の見方」の多様性は抑圧され、「複数性」は死滅する。「内」と「外」が違うことを意識するだけではなくて、”内”と”外”の境界線がどこにあるのかという解釈自体にバリエーションがあり、かつその”内”の中にも様々なバリエーションがあることを承知しておく必要がある。師であるハイデガーがドイツ語で施行する者にとっての「真理」に拘っていたのに対して、アーレントは特定の言語共同体に限定されない、「人間」の条件としての「複数性」を探求しようとしたのである。「複数性」を生み出し、ヒトを「人間」らしくする「活動」に注目することによって、全体主義的な閉鎖性から離脱しようとするところに、アーレントの言語観の特徴がある。(pp.86-87)
ところで、独逸語を母語とするアレントは、その人生の後半においては、英語で言葉を綴った。アレントのテクストは、非母語による文学という意味でのマイナー文学として論じられるべきなのかも知れない。