谷村新司

立て続けにミュージシャンが逝去している。


株式会社ダオ「ご報告とご挨拶」https://www.tanimura.com/news/article-12550
谷村新司さん死去 74歳 「冬の稲妻」「昴」など数々のヒット曲」https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231016/k10014226661000.html



谷村新司*1の死。享年74歳というのは、現在の日本の平均寿命からすれば、まだ若い! と言わざるを得ないだろう。
さて、私及び(多分)±10歳の世代の人間にとって、谷村新司の影響は、関心の有無を問わず、またポジティヴにせよネガティヴにせよ、被っている筈なのだ。だから、この訃報に関しては、やはり好きとか嫌いとかを超えて、心の動揺を覚えてしまうのだ。
最初、谷村というのは(私にとって)歌手ではなく、「天才・秀才・バカ」の人だった。文化放送の深夜番組『セイヤング』。中学3年の頃に、友人の影響で聴き始め、その後、時間帯が被っていた林美雄の『パックインミュージック』を聴くようになって、谷村の『セイヤング』は聴かなくなったのだけど、その後も谷村新司と「天才・秀才・バカ」はセットで私の記憶に仕舞われている。その間、谷村のアリスがそこそこメジャーになって、(その頃はまだ全盛時代だった)TVの歌番組にも出るようになっていた。しかし、(私にとって)アリスというのはTVに出るアーティストのひとつにすぎなかった。世間の態度は全く違っていたようだった。1978年には、アリスは(日本人としては初めて)日本武道館で3日連続のライヴを行った。その頃から、アリスって〈新興宗教〉みたいで気持ち悪いんじゃない!? というアンチの声も大きくなってきたように思える。谷村がソロ・シンガーとしてブレイクしたのはその後の1980年代。
ぶっちゃけ、谷村新司というのは好きなアーティストではない。といっても、情熱的に嫌ってるわけではないのだけど。何故好きではないのかを考えてみる。多くの人が谷村のことを文学的という。文学的というのはとても曖昧な形容詞なのだけど、谷村の文学性というのは、浪漫主義的というか*2萬葉的*3とでもいうべき美学に通じているような気がする。私はそういう浪漫が好きではないので、谷村は好きになれない。反対に、そういう美学に親和性がある人は、谷村の歌詞や、そのようなセンティメントを刺戟するメロディやアレンジに惹かれるのだろう。そのような美意識は、政治的にはマッチョな右翼的スタンスに往々にして結びつきやすいのだろうけど、浪漫への指向は政治的な右翼、左翼。中道を問わないと思う。もうひとつ言っておけば、谷村の、「天才・秀才・バカ」的な下ネタやエロへの執着というのは、意識的だったのか無意識的だったのか知らないけれど、そのような浪漫指向を中和(相対化)するものだった。
谷村新司に寄り添った評価としては、松尾潔氏の


「「谷村新司音楽史の傑物」音楽プロデューサー・松尾潔がラジオで追悼」https://rkb.jp/contents/202310/182919/


を、また、アンチのステイトメントしては、古寺多見氏の


谷村新司死去」https://kojitaken.hatenablog.com/entry/2023/10/17/065702


を、それぞれマークしておく。
古寺多見氏のエントリーを読んで、何故自分が谷村を好きになれないのかを反省してみたのだった。