検見川でも

関東大震災後の混乱の中で日本人が「朝鮮人」と誤認されて虐殺された事件として、現在の野田市で発生した「福田村事件」がある*1。千葉県内では、(福田村よりも規模は小さいものの)検見川町(現在の千葉市花見川区検見川町)でも同様の事件が起っていた、
東京新聞』の記事;

日本人が日本人を集団で殺害…関東大震災直後の忘れられた事件 現代に通ずる差別意識と偏見の暴走
2023年8月7日 12時00分

 人々に忘れられた虐殺がある。関東大震災直後に千葉県検見川町(現・千葉市花見川区*2で、暴徒化した自警団に「不逞ふてい鮮人」と決めつけられ、沖縄をはじめとする3人の地方出身者が殺害された「検見川事件」だ。背景には、在日朝鮮人への蔑視にとどまらず、異質な存在それ自体に対する差別感情が見え隠れする。震災から間もなく100年。依然としてデマを妄信し、排他意識を振りかざす現代の日本人に与える教訓は大きい。(西田直晃)


◆沖縄、秋田、三重県出身者が犠牲「検見川事件」
 「日本人が、集団で日本人を殺す。考えられないことさえ起きています」
 この20年ほど、「検見川事件」を独自に調べてきた島袋和幸さん(75)=東京都葛飾区四つ木=は目を大きく見開き、声を張り上げた。傍らには、調査や自身の見解をまとめ、自費出版した「資料集」がある。
 事件は震災から4日後の9月5日に発生。被害者は沖縄、秋田、三重県出身のいずれも20代の男性で、東京から旧花見川を渡って避難していた。島袋さんが入手した当時の新聞などに惨状が記されている。
 「三名を不逞鮮人の疑いありと巡査駐在所に同行、人々は数百人(中略)三名を針金にて縛り殺したものである」(法律新聞・1923年11月3日)
 「警察署の身元証明書を出して哀訴嘆願するにも拘かかわらず(中略)滅多斬めったぎりに惨殺した」(山形民報・同年10月18日)
 「死骸を花見川に投棄」(宮武外骨『震災画報』)
 現場が旧幕張町と近接しているため、新聞紙面によっては「幕張事件」とした記事もある。裁判の結果、青年団に所属し、震災時に自警団活動をしていた10人が有罪になった。


◆「震災のことを話したがらない」慰霊碑すら残らず
 被害者3人の月命日である今月5日、島袋さんとともに「こちら特報部」は現地に足を運んだ。京成検見川駅から南西に徒歩5分。震災から7年後に画家が描いた「検見川町鳥瞰図ちょうかんず」とほぼ同様の街並みが残り、住宅や年季の入った商店が軒を並べる。現場には「何もない。慰霊碑すらない」と憤慨する島袋さん。3人が殺された駐在所は雑草が生い茂る空き地に、遺体が放り込まれた旧花見川は開削事業で150メートルほど西に移され、サイクリングロードに様変わりしていた。
 近くの住民に事件について話を聞くと、異口同音に「知らない」という返答。郷土史の勉強会を開いている男性(86)は「旧花見川は流れが速くて、よくウナギが釣れたよ。駐在所も覚えている。でも、そんな事件は聞いたことがない」と首をかしげつつ、「ただね、検見川の人は震災のことを話したがらなかった」と苦笑しながら付け加えた。
 島袋さんの調査も難航を極めたという。これまで、現場周辺の古刹こさつへの聞き取りのほか、被害者が生まれた3県を訪れ、墓や遺族の有無を調べた。三重の遺族は事件直後に損害賠償を求めて提訴しており、2009年に子孫が判明。秋田の遺族は今も分からない。
 14年に沖縄の地元紙に「遺族捜索」の記事を載せてもらうと、可能性が高い男性が名乗り出たものの、沖縄は戦火で住民基本台帳が消失したため、断定できていないという。
 ここ数年、9月に事件現場での慰霊を始めた島袋さんは言う。「いわれなく殺された3人がこれでは浮かばれない」


◆デマを信じ暴徒化…地方出身者が犠牲に
 関東大震災から100年となる今年、各地で起きていた虐殺事件を検証する動きが盛んだ。その一つが「福田村事件」。震災から5日後の9月6日、千葉県福田村(現・同県野田市)で発生している。
 香川県から行商に訪れた被差別部落の男女15人が朝鮮人だと疑われ、自警団から暴行を加えられたり、利根川に投げ込まれたりして9人が殺害された。今年6月、事件に密着したノンフィクションが再刊され、9月1日から、この書籍を原作とした映画も劇場公開される。
 検見川事件と福田村事件に共通するのは、震災直後に拡大した「朝鮮人暴動」のデマを信じ込んだ自警団の暴徒化だった。そして、いずれも帝都・東京から遠く離れ、標準語を話せない地方の出身者が犠牲になったことだ。
 沖縄県出身の島袋さんが検見川事件を調べたのは、被害者の1人が「ウチナンチュー(沖縄人)だった」からだという。「言葉のなまりから異質の存在と見られたのだろう。事件は在日朝鮮人のほか、琉球人ら地方出身者への偏見の問題もはらんでいる。沖縄にとっては今も続いている差別の表れだ」


◆「朝鮮人琉球人お断り」と貼り出され…
 1920年代初頭、国内では第一次世界大戦後の不況により、地方からの出稼ぎが加速していた。特に目立ったのが沖縄出身者だ。東京経済大の戸辺秀明教授(日本近現代史)は「第一次大戦後の沖縄では砂糖の価格が暴落し、農業経営が成り立たなくなった。砂糖による現金収入で米を買っていたが、全く食べていけなくなった」と説明。沖縄県の調査によると、20年代半ばには約2万人が県外に出稼ぎに出ており、全国的にも目立っていた。
 戸辺氏は「沖縄出身者、東北出身者らへの差別があった」と述べる。「特に大阪では明白で、『朝鮮人琉球人お断り』などと書かれた紙を下宿紹介業者が貼り出していた。県外に来た沖縄の農家の子弟は、非熟練労働や単純労働に従事するほかなく、集住する地域も朝鮮人と重なっていた」と語り、こう続ける。
 「震災当時、『日本人とは違うしるし』を持っているように見える人は標的にされたのだろう。言葉や服装のほか、天皇陛下の名前を言えるかどうか、なども該当する。沖縄には『殺されかけた』という複数の証言が残っている」


◆「井戸に毒」熊本地震でもデマ
 その1人が、沖縄出身の歴史学者比嘉春潮。著書「沖縄の歳月 自伝的回想から」(中公新書)には、震災直後、自警団により交番へ連行される場面がある。
 「男が、『ええ、面倒くさい。やっちまえ』と怒鳴った。腰には無気味な日本刀をさしている」という記述が目を引く。沖縄出身者であると伝えても、自警団の男が意に介さない様子を伝えている*3
 ジャーナリストの安田浩一*4は「大災害という非日常的な出来事が起きると、デマがはびこり、差別感情があらわになるのは現代も変わらない」と指摘する。2016年の熊本地震の際には「朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだ」、18年の西日本豪雨では「自警団を組織し、外国人の犯罪に備えよう」などの書き込みがネット上に散見された。災害時に限らず、在日コリアンを敵視した放火事件、沖縄県民を侮辱する発言なども相次いでいる。
 安田氏は言う。「血肉の付いた憎しみではなく、単なる偏見と差別感情に基づいた事件は目に余る。異なる他者を排除することで成り立つ社会は不健全だ。差別と偏見の向こう側には、殺りくと戦争がある。関東大震災は遠い昔の物語ではなく、今ここにある話だ」


◆デスクメモ
 悪質な民族差別デマに踊らされ、聞き慣れない言葉を話すからといって同胞をも惨殺する。二重三重の悲劇で、もっと多くの人に知られていていい事件だが、100年近く埋もれてきた。なぜなのか。蛮行をなかったことにしたいという逃避と、変わらぬ差別意識。それが原因に違いない。 (歩)
https://www.tokyo-np.co.jp/article/268385