還元できず

戸井田道三『観阿弥世阿弥*1から。


太平記』には、その世界に生きた人びとに、たとえば宮・卿相・雲客・地下・侍・御家人・国人・下人・郎従・牛飼など貴賤各種の人びとが登場する。聖・遁世者・法師・遊君・傾城などといわれるものも、野伏・山伏・山立・溢れ者などといわれるものも登場する。これらをふくめると約五十種の名称があげられる。徳川時代になると士・農・工・商・穢多・非人などと身分が固定化されて、そのうちどれかに所属させられることになったが、『太平記』の時代の人びとは、それぞれ複雑な矛盾関係にまきこまれて生きながら流動していた。あるものは上昇し、あるものは没落して封建的な体制に推移していったのである。
おおざっぱに中世の社会を構成する階層についていえば、貴族とか社寺を中心にした荘園領主、武士といわれる守護や地頭あるいは荘官など、また名主よいわれる農民層。これら名主層に隷属している名子・被官・下人、さらには非人といわれたいろいろな階層からなっている。『太平記』にあらわれてくる五十ばかりの名称はほぼこれらのなかに吸収して考えられる。しかし、それらが、なぜ五十種類にものぼったかといえば、同じ人間が生産関係の内部で多角的な関係をもち、そのちがった関係ごとにちがった名称でよばれるからである。たとえば神社領の名主は神人とよばれ、それが同時に宮廷から供御人とよばれることもあり、座を形成して商人とよばれることもある。だから身分的な名称によって、単純にその内容を規定するわけにいかない。とくに近世になって武士と農民というはっきりした差別のできたものについては、ひじょうにつかまえにくいものがある。中世にあっては、すでに旧体制の買部で有力な武士となっていたものをのぞいて、武士と農民との質的差異をきめることは、なかなかむずかしい。たとえは地下といわれる階層のものは旧体制では昇殿をゆるされない官人であったから貴族の末端であった。ところが、『太平記』に出てくる地下は土着の農民をさしているばあいが多い。もとから農民的な武士が、貴族に荘園をよせて官人化したのが地下であったろうから、貴族の権力が弱くなれば在地野」武士が土豪化してゆく可能性はあったわけで、土豪自身が上昇すると、階層分化から土豪の下に地下が位置したりすることになる。要するに武士と農民が荘園制的な古い体制から封建制へと移行してくる歴史的な主体であったから、階層としての内容がつかまえにくいのである。(pp.37-39)
要するに、「中世」においては貴賤の多様な身分が犇めいており、尚且つ身分間の境界も曖昧だった。「階層としての内容がつかまえにくい」のは、「社会の基底で農民が古代の奴隷制から封建的な農奴制へと変革の過程をすすんでいた」(p.40)という図式や、徳川時代をモデルとした「封建制」的な支配関係を前提としているからで、中世における「多角的な」社会関係をそのまま受け入れればいいということなのではないだろうか?
因みに、「座」というのは猿楽(能楽)を語る上で、重要な鍵言葉となる(Cf. 第2章「座と村」)。