『太平記』と関東大震災

戸井田道三『観阿弥世阿弥*1から。
曰く、


太平記』の作者をなんの」だれそれと姓名をあげることは、あまり意味がない。あれだけぼうだいな史料を個人の力で整理概括することはとても不可能だからである。
印刷機さえなかった時代に、東北から九州までをふくむ動乱を一望のもとにながめわたし、歴史として把握しえたのは、どんな手段によって可能であったのであろうか。考えてみると、まことに驚くべき仕事である、われわれは伝達媒体がめざましい発達をとげた時代に生きているから、それらのなかった時代を想像することがなかなかできない。(後略)(p,20)
そして、少年時代に経験した「関東大震災」にこと*2

たとえば参考に大正十二年(一九二三)の関東大震災のことを思い出してみるがいい。電信・電話が不通で、鉄道もとまってしまったため、新聞も配達されなかった。当時わたしは東京からたった五十数キロしか花離れていない湘南海岸にいたのだが、東京のようすは全然わからなかった。自分が眼で見、耳で聞きうる範囲は、ほんの小さい周辺に限定されており、その外はまるでわからなかった。そういう不安から多くの人びとが現在では想像もおよばないほどばかばかしい流言飛語に迷わされた。そのため多くの朝鮮人社会主義者が虐殺された。震災後にそれらの真偽とりまぜた諸情報を比較検討し、整理選択してはじめて災害の全体が概括され全貌を伝えることが可能になったのだ。つまりひじょうに多くの知的作業が参加・集積されてはじめて震災に関する知識がわれわれのものとなったおである。(pp.20-21)
まあ、現代でも、何かあれば、私たちが「ばかばかしい流言飛語に迷わされ」るというのは変わらないけれど。