共著者?

戸井田道三『観阿弥世阿弥*1から。
『洞院公定日次記』の応安7年(1374年)5月3日の条に、『太平記』の作者、「小島法師」が同年の4月末に死去したことが言及されている。「卑賎の身分のものではあるが、名称としてのきこえがある」ので、「死んだのは残念だ」と(p.21)。「当時『太平記』は小島法師が作ったと伝えられていたのである」(pp.21-22)。


小島法師が死んだ応安七年(一三七四)は、観阿弥四十二歳、子の世阿弥十二歳の年である。ちょうど将軍義満が彼らを見いだして特別にひいきにしはじめた年だ。この翌年、世阿弥二条良基によって藤若と名づけてもらったのだった。義満に見いだされてから、どんどん上流社会に出入を許されてきたのであろう。永和四年(一三七八)の六月、藤若は義満に同席を許されて四条東洞院の桟敷に祇園会の鉾を見物している。それは後押小路内大臣公忠*2の『後愚昧記』によってよく知られている。公忠は「このような猿楽は乞食のやることだ、将軍がこれを寵愛して席を同じくし盃をやっているのはけしからん」と憤慨している。洞院公定が「卑賎の器」といった小島法師と、後押小路公忠が乞食といった猿楽者とは、身分をひとしくしていたと思われる。もし両者がひとしい身分のものであったとすれば、小島法師観阿弥らの歴史に対する態度をも代弁していたのではなかったであろうか。
要するに、小島法師は実在の人物にちがいないが、一種の集合名詞と考えるのが妥当であろう。『太平記』は協同著作と考えられるのである。卑賎な小島法師がその著者として喧伝されていたからは、観阿弥もまたその協同性に参加していたといっていいのであろう。その協同性というのは、直接的ではないにしても、少なくともつぎの意味でありえたはずである。ひとつは観阿弥の見る行為が『太平記』の著作者たちの見る行為とかさなっているという意味であり、もうひとつは『太平記』の内容をなしているもろもろの人物たちの事件や動きに観阿弥も同時代人として参加している、つまりする人として参加しているという意味においてである。観阿弥もまた卑賎なるがゆえに、それができたと考えらえれるのである。(pp.24-25)
かなり難解な一節。ここから、観阿弥は『太平記』の共著者だったと言ってしまえば、完全なトンデモであろうし、観阿弥はその周縁的な身分故に、やはり同時代の、同様な身分的境遇にあった小島法師ら「『太平記』の著作者たち」の観点に共鳴・共感する可能性が強かったとすれば、今度は当たり前すぎて、こんな回りくどい語り方をする必要があるのか? ということになる。
さて、この後で、「卑賎なもの」たちが「情報伝達」において重要な役割を果たしていたことが示される(p.25ff.)。「野伏」(「野臥」)、「山伏」、「禅僧」、「遁世者」を含む「卑賎」者たちは、情報の収集だけなく、情報の製造、特に「流言」、21世紀風に言えばフェイク・ニュースの製造においても活躍していた。要するに、この時代の「卑賎の器」たちは、21世紀ならインフルエンサーと呼ばれるであろう存在だったわけだ。
「『太平記』の著作者たち」は、フェイク・ニュースに右往左往するだけの一般人とは違って、クールな距離感を有していた。

しかも[流言の猛威に]「如何ナル天魔波旬ノ所為ニテカ有ケン」という感想をさしはさんでいる『太平記』の作者は、ただびっくしり、恐怖しているのではない。デマをデマとして認めるだけの距離をおいて観察しているからこそ、そのような感想がでてくるのであって、事件が彼の目には歴史的に見えていたのである。ほかでもない小島法師観阿弥たち卑賎の輩が当時の情報伝達の重要な媒体をなしており、したがってまたそれらの本質を知っていたということなのである。(pp.29-30)