屋号?

「日本の苗字は江戸時代の屋号由来?」http://taraxacum.seesaa.net/article/456760528.html


夫婦別姓に反対する西田昌司*1という自民党の政治家によれば、日本の「名字」(苗字)制度は江戸時代の「屋号」に由来するのだという。え、そうなの? まあね、江戸時代の豪商で、天野屋利兵衛*2紀伊国屋文左衛門と呼ばれた人がいるけれど、江戸時代に苗字というのは武士の特権で、百姓町人というか農工商は苗字を持てなかったという、現在では殆ど否定されている説が頭にあったりすると、商人は苗字を持てなかったので、屋号を苗字の代わりにしたのかと思いこんでしまっても、まあ無理はない。私だって、小学3年生・4年生の頃はそう信じていたのだった。でも、「屋号」と「名字」(苗字)というのは関係ないでしょう。越後屋は近代の三越デパートや三井財閥の源流であるわけだけど、その当主の苗字は「越後」ではなく「三井」だよ。屋号といえば歌舞伎役者。市川團十郎の屋号は「成田屋」だけど、成田團十郎などという歌舞伎役者は存在したことがなかった。さて、「屋号」というと何を連想するのだろうか。商法的な意味における「屋号」、つまり店の名前だろうか。今言った「越後屋」とか(何故か東京の酒屋には多い)三河屋とか。また、流動性の高い都会に住む人には馴染みは少ないかも知れないけれど、田舎の村或いは町場で、世帯を区別するために用いられている「屋号」というのもある*3。そういう地域社会の多くでは、同じ苗字の人が集まって暮らしているので、苗字というのは個人や世帯を区別するマークとしては機能しない。「西田」さんの家は何処ですか? と訊いても、どの「西田」だ? ということになってしまう。そこで、世帯の区別は「屋号」で行うことになる。こちらの方が店の名前としての「屋号」よりも起源に近いんじゃないか。また、日本のイエ制度(同族制度)において、同じ苗字の集団であるイエを構成するそれぞれの世帯(本家とか諸分家とか)を区別するためにも「屋号」が用いられた。私の知る限り、地域社会或いは同族内の「屋号」は、XX屋というのよりも、○○兵衛とか□□左衛門というものの方が多いように思える。多分、それぞれの世帯の当主が代々○○兵衛とか□□左衛門という名前を襲名するという習慣があって、そこから□□左衛門のところ、ということで世帯を示すマークとなっていったのでは? 取り敢えず、「江戸時代に苗字を名乗れなかった庶民は、/一族を示す名前が必要になったので、/「屋号」を名乗ったという側面はあります」ということはないだろう。「屋号」というのは「一族」(イエ)ではなくて、「一族」の中の個々の世帯を区別するためのものなのだから。
以前にも書いたことだけど、日本の田舎の閉鎖的な地域社会を舞台にした物語で、登場する苗字の数が多いと、何だか白けてしまう。伊沢幸太郎の『オーデュボンの祈り』の殆ど唯一の欠点もそれなのだった*4

オーデュボンの祈り (新潮文庫)

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ところで、江戸時代の「庶民」が苗字を持っていなかったということを信じている人って、今でもけっこういるのだろうか。たしかに、公には名乗れなかったということはある。しかし、そのことと苗字を持っていなかったということは同じではない*5。苗字は武士の特権だったと言っても、武士と農民の区別だって、豊臣秀吉による「刀狩り」(兵農分離)以後のことであるわけだ。それ以前だと、基本的に農民も武装していたし、戦国大名は合戦がある度に領内の農民を足軽として徴兵していた(See 藤木久志『刀狩り』*6)。いくらお上から苗字を名乗るなと言われても、中世以来の苗字があった筈なのだ。ところで、公に名乗れなかったというのはどういうことなのだろうか。この「公」というのは税(年貢)関係、或いは訴訟や裁判関係ということなのだろうか。町人であった本居宣長伊藤若冲は「本居」や「伊藤」という苗字を使って、大っぴらに著書を上梓したり絵を発表したりしていた。こういうのはまさにパブリックな振る舞いだけど、「公」ではないのだろうか。尤も、天皇(朝廷)との関係では、苗字というのは一貫してたんなる私的な称号でしかなかったわけだけど(See 岡野友彦『源氏と日本国王』)*7
刀狩り―武器を封印した民衆 (岩波新書 新赤版 (965))

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源氏と日本国王 (講談社現代新書)

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