「神様が気付いてくれなかった」

承前*1

『読売』の記事;


「石は神様気付かない」消火器投げ込み男、再逮捕
 大阪、兵庫など4府県でプロテスタント系教会や付属施設に消火器などが相次いで投げ込まれた事件で、大阪府警捜査1課は23日、無職池田康政容疑者(29)(逮捕)を、別の教会に対する器物損壊容疑で再逮捕した。


 池田容疑者は、既に計72件の犯行を認めており、「初めは石を投げ入れていたが、神様が気付いてくれなかったので、(消火剤が噴霧する)消火器を使った」などと供述。大阪地検は同日、1件目の事件について処分保留とし、近く正式な精神鑑定を行う方針。

 発表によると、池田容疑者は、4月27日午前5時頃、大阪市此花区プロテスタント系教会に併設された保育園に消火器を投げ込み、窓ガラスを割った疑い。

(2010年7月23日19時21分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20100723-OYT1T00841.htm

検察は容疑者の言動からこのままでは公判を維持できないかもと考え、事件が刑事裁判の領域から精神医学の領域へ移される可能性が指示されている。
ただ、「神様が気付いてくれなかった」という「池田康政容疑者」の言は宗教学的な意味で興味深い。彼にどれだけの神学的な教養があるのかは知らない。しかし、こういう言動というのはもしかして「プロテスタント」というものの帰結のひとつであるかも知れないのだ。
アブラハムの宗教においては、神と人間、無限なる者と有限なる者、超越的なる者と内在的なる者、絶対的なる者と相対的なる者とのコミュニケーションの可能性/不可能性が問題になる。天使という超自然的存在者がこの問題の解決のために設定されたというのは納得できることだ。カトリックでは天使に加えて、この問題を守護聖人制度によって解決しようとした。神と人間との直接的なコミュニケーションは(通常では)不可能であるが、守護聖人を通じて間接的には可能であるとした。守護聖人は国、都市、職業、身分等々で細分化されているので、他のアブラハムの宗教から見ると、カトリックは〈多神教〉の様相を呈していることになる。宗教改革(「プロテスタント」)は神と人間との間に立ちはだかる媒介物を一掃して、基督教を〈一神教〉として純化しようとする運動でもあると言える。その結果、たしかに神と人間との関係は直接的にはなったものの、守護聖人などの媒介物が廃されてしまったので、神と人間との関係はさらに疎遠なものとなってしまった。この意味で、「池田康政容疑者」の所行は(本人が意図したものかどうかは別として)プロテスタント神学のコアの部分、それもいちばんのソフト・スポットを示してしまったと言えるのかもしれない。
この問題については、取り敢えずピーター・バーガーの『聖なる天蓋(The Sacred Canopy)』をマークしておく。
The Sacred Canopy: Elements of a Sociological Theory of Religion

The Sacred Canopy: Elements of a Sociological Theory of Religion

See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100703/1278129454