預言カフェ?

http://d.hatena.ne.jp/eirene/20070525/p1にて知る。


早稲田に出現 「預言カフェ」に行ってきた!
コーヒー1杯で未来も悩みもズバッと当てる

北澤強機(2007-05-16 21:45)

 5月6日にプレオープン、15日に正式オープンした「預言カフェ」(東京・早稲田)が早くも人気になっている。

 預言とは、キリスト教で神の言葉を人々に伝えること。天変地異や人の死などを予想する「予言」とは違い、相談者の性格と悩みに対するアドバイスをしてくれる占いに近いものだ。


 決定的に違うのは、一切の予備尋問や、悩みなどを事前に尋ねることがないところ。預言者は、訓練を積むと、ラジオの周波数を合わせるようにして、神の言葉をキャッチできるのだという。

 預言カフェのオーナーで、日本初(記者注)の預言者、吉田万代さん(42)は、大学生時代にドイツへ留学した。そこでお世話になったホストファミリーに対し、「お世話になった義理を果たすため」に預言トレーニングを始めた。

 日本に帰国後、東京・飯田橋で教会を開きながら訓練を続け、約10年前からは教会を訪れる相談者に預言を伝えてきた。

 預言は何らかの機器で録音することを勧められる。ない場合は、カセットテープに録音して渡される。

 「預言は神様からいただくものであり、商売にはしたくない」という吉田さんの希望で、ここでは1杯(350円〜)のコーヒーを注文すれば、預言は無料で受けられる。コーヒーは1杯ずつミル挽きされる本格的なものだ。

 記者も預言を受けた。名前を聞かれた以外は、情報や悩みなどは一切伝えていない。

 約5分間、吉田さんは一方的に話し続けた。その内容は、私の会社での役職と、それによって発生している悩み。1年前から大きく給料が下がったことで、夫婦関係が悪くなっていることと、その対策。心臓の持病があり、いつから本格的な治療をしようかと思案していたことへ、具体的なアドバイスだった。

 いずれも他人に吐露したことすらない内容。だが、不思議と怖ろしい印象はなく、なんだか楽な気分になった。

 預言を受けた主婦(30歳)にも聞いてみた。


 「心の中に一つ懸案事項があったのですが、事前にそのことをひと言も話していないのに、もう吉田さんが随分前から知っていたように具体的なアドバイスがありました。占いとかスピリチュアル的なものに懐疑的でしたが、びっくりしました」

 興奮気味だった。

 場所は早稲田大学近く、早大通り沿いに山吹町方向へ2分ほど行ったところにある。営業日が少なく、営業時間が短いので注意が必要。いまのところ予約は受け付けていない。

◆預言カフェ
新宿区早稲田鶴巻町521 完生堂ビル1階(早大通り沿い、地下鉄東西線早稲田駅4分)
営業時間:午後2時〜午後6時半
定休日:土・日・月

【記者注】クリスチャン・インターナショナル以外のキリスト教宗派においては過去に存在した可能性もあり。
http://www.ohmynews.co.jp/news/20070516/11191

多分聖書とか基督教について少なくとも一般教養程度の知識を持っている人は頭を抱えてしまうのでは? 

「預言」は、ほんらい悩み事相談や占いとは違う。神の名によって行われる政治批判、社会批判である。聖書で個人の悩み事相談を「預言」と呼んでいる例はないはず。
というeireneさんの突っ込みはまったくその通りだと思う。狭い意味での「聖書」にとどまらず、猶太教、基督教、イスラームを包括する〈アブラハムの宗教〉の伝統においては、モーゼにせよ耶蘇にせよムハマンドにせよ、「相談者の性格と悩みに対するアドバイスをし」たから預言者と呼ばれているわけではない。彼らの預言は民族や人類に関わっていた*1。また、基督教においては耶蘇が、イスラームにおいてはムハマンドが最後の預言者とされているのではないか。
この記事を読んで、基督教でも或る教派では「預言」を実践しているということはわかった。しかし、これは数多ある基督教の諸教派の中でも例外的なのではないか。勿論、病からの癒しを強調する教派もあるが、そのような場合でもhealingとprophecyは全く別のものとして区別されている筈だ。
預言者マックス・ウェーバーにおいては祭司と対立させられている*2。聖書的伝統を離れて、社会学的に一般化すると、この祭司/預言者という対立は(アーネスト・ゲルナーがいう意味での)カトリックプロテスタントという対立と重なるところも出てくる。トポスとしては、都市(聚落)/荒野、中心/周縁。また、eireneさんに倣って、預言=在野的立場からの社会的・政治的領域への宗教的言及というふうに一般化してみると、多くの場合、普通の行者や拝み屋と教祖との境界線に預言者になるということがあるといえるだろう。さらにいえば、予言者(fortune-teller)であれば大した害も(或いは益も)与えることもないのに、本人や周囲が預言者(prophet)と誤認したが故に重大な帰結を生じるということも考えられる。オウム真理教の麻原だって、ただのヨガの先生でありつづけたていたら、ああいう事件は起きなかっただろう。
そういえば、多くの〈預言詩〉を書いたウィリアム・ブレイクに言及するのを忘れた。

*1:但し、耶蘇に関しては山形孝夫などが説くように「治癒神」としての側面が濃厚であるが、後述するように、それは預言とは区別されているだろうし、されなければならない。

*2:勿論、ピーター・バーガーなどがウェーバー預言者論・カリスマ論にカルヴィニズム的バイアスを見出して、批判していることも申し添えておかなければならない。因みに、80年代に、私たちは祭司と対立するのは道化(トリックスター)だろうと言っていた。