琉球(沖縄)における人名の規範については全然知らなかった。
大藤修『日本人の姓・苗字・名前』*1から。
琉球の伝統的人名は屋号*2と個人名からなる。屋号は屋敷を含む住居を指す標識であり、地域社会においては世帯や家族を特定する機能を果たしていた。一方、個人名は生涯使用する名前で、主として祖父母の名前を継承して命名され、長男・長女以外については、傍系親族に拡大するか、あるいは祖父母の上の世代の先祖にさかのぼって、特定人物の名前を継承した。
父方・母方の祖名を継承した点が特徴であり、琉球社会がもともと双系的な親族関係を基礎とする社会であり、双系的な先祖観を持っていたことによるとされる。(pp.167-168)
近世琉球の身分制は、士*3=官人層と百姓*4という二大身分によって構成されていたが、それが明確化されたのは家譜編纂事業による。一六八九年、その事業を永続的に行う役所として系図座が設置され、士族は家譜を提出させられ、認可されれば士身分と認定され、否認されると百姓身分にされた。それによって、「系持ち」=士身分、「無系」=百姓身分と、明確に区分されることになったのである。
この家譜には、琉球名のみならず、中国式の姓と名前(唐名)、日本式の苗字と名前(名乗)も記され、系図座に管理された。中国との長い冊封・朝貢関係を通じて、中国への使者などは中国式の姓・名前も名乗っていたが、近世の家譜編纂に際して琉球王から王府の役人に姓が与えられたので、姓が士族層に広まることになった。沖縄島の士族は「毛」「翁」「馬」などの中国的な一字姓であるが、宮古・八重山諸島の両先島の地方役人は「白川」「山陽」などの日本的な二字姓にされ、差異化がはかられている。
この姓と儒教的価値観の士族層への定着により、姓をシンボルとし、先祖祭祀を支柱とする父系親族組織である「門中」の制度が発達した。この門中制度は、士族の集住する首里・那覇に近い沖縄島南部の農村部も模倣するようになり、近代には父系血縁重視のイデオロギーが沖縄島北部農村や離党にも流入して、その形成が進んだ。
中国式の個人名は「唐名*5」と呼ばれ、始祖からの世代序列を示す輩行制原理によって命名された。同一世代の男子は名前のうちの一字(輩字=系字)を共有し、漢字二字名では最初の文字がそれに相当する。たとえば「必昌、必英、必保、必栄」といった具合である。中国の漢民族社会では、輩字は宗族という父系親族組織における世代序列を表示したが、琉球社会では家族単位で兄弟が輩字を共有している。
琉球でも父系親族組織の門中が形成されたものの、門中の世代序列よりも、家族のそれが重視されたのである[上野和男―二〇〇二*6]。(pp.168-169)
近世には琉球は日本の支配も受けることになったので、日本式の苗字と名前も受容した。苗字は、日本社会で永続的な家が形成されたのに伴い発生した家名であり、武士層では領地の地名にちなむものが多かったが、琉球の士族の苗字も同様であった。しかしながら、転封や領地の取り上げが日常的に行われていたために、代々継承される家名としての性格は弱く、家譜編纂が行われても、その中心軸とはなりえなかった。
薩摩藩は琉球を支配しながらも、和風俗への「同化」政策はとらず、差異化をはかっていた。苗字についても一六二四年に「大和めきたる名字」の使用を禁じている。ために、「前田→真栄田」「横田→与古田」「船越→富名腰」「徳山→渡久山」のように、二字苗字が本来の地名の由来を無視して、同音の三字苗字に変えさせられた(薩摩藩の領分になった奄美では一字苗字にされた)。しかし、薩摩藩の命令は早い時期に厳格ではなくなったこともあって、二字苗字はもとより日本風の苗字も多く存在している。
日本社会では(略)世代序列を示す中国の輩字=系字も導入されたが、家の形成に伴い代々一字を継承して家系を示す通字に転換する。この日本風化した実名=名乗と通字も琉球の士族層に受容された。
通字は琉球では最初の一字を継承したので、「名乗頭」と呼ばれる。日本では通字は代々の家長に継承される例が多かったが、琉球の名乗頭は父系血縁に沿って継承され、姓と組み合わされて門中のメンバーであることの標識となった。中国式の姓と、日本式の通字の影響を受けた名乗頭によって、門中のメンバーが確定されたのであり、そこでは日本的な苗字は何ら意味をなさなかった[同前]。
琉球の伝統的な個人名は一生を通じて使用されるものであったが、日本的な成人名としての名乗=実名の導入によって、「童名*7」に転化する。(pp.169-170)
中国と日本との関係においては、それぞれ中国式の姓・名前と日本式の苗字・名前が使い分けられた。琉球国王は将軍代替わりと琉球国王代替わりに際して、それぞれ慶賀使と謝恩使を日本に派遣したが、その使節はたとえば「金武朝輿」「与那城朝直」のように苗字・名乗を使用している。一方、中国への使節は姓と唐名を名乗った。ただし、国王は日本式の苗字・名乗は持たず、日本との関係においても、「尚益」「尚敬」のような中国式姓名を用いている。
外来の人名体系の導入は、門中制度の発達のように、琉球の社会組織を変容させもした。しかしながら、日本の通字の影響を受けた名乗頭は、日本のような家系ではなく、父系親族組織=門中のシンボルとなり、他方、中国では父系親族組織=宗族いおける世代序列を表示した輩字は、琉球にあっては家族内部の世代序列を表示するものとなったように、改変して受容し、琉球独自の人名文化を創出してもいたのである。(pp.170-171)
*1:Mentioned in https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2022/10/22/105125 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2022/11/09/133546
*2:「ヤンナー」というルビ。
*3:「サムレー」というルビ。
*4:「ハクソー」というルビ。
*5:「トーナー」というルビ。
*6:「沖縄の名前と社会」比嘉政夫教授退官記念論集刊行会編『琉球・アジアの民俗と歴史』榕樹書林、2002.
*7:「ワラビナー」というルビ。