「フナト」/「フナツ」

遠山成一「中世の印旛沼」『印旛沼』(印旛沼環境基金)42、pp.4-5、2022


先ず、


中世の印旛沼は、現在みられるように長門川で利根川につながるものではなく、広大な香取内海*1の一つの入り江として北が大きく開口していたことは良く知られている。そして当時「印鏤のうら(印旛の浦)」と呼ばれていたことが、外山信司氏により明らかにされている*2。とすれば、中世の印旛沼を語るには香取内海という大きな枠組みのなかで考えていくべきであろう(後略)(p.4)
という。
さて、「フナト」や「フナツ」という地名を巡って;

常総の湖沼地帯や大小河川には、百例を超す数多くのフナト・フナツ地名が存在することを以前論者は指摘した*3。現在の印旛沼沿岸では、佐倉市羽鳥、同臼井台、印西市岩戸、同笠神、同酒直、栄町矢口、同北辺田があげられる。フナトは船渡(舟渡)、船戸(舟戸)と表し、渡河のための舟渡し、または戸、すなわち津での船の発着場所を意味する。もちろん双方を兼ねる場合もあり、多古町寺作の栗山川には字船渡が川岸に残るが、『金澤文庫文書』から南北朝初期ころに、ここを出て上流の三倉方面に人や物資を積んだ船が確認できる。
佐倉市臼井台の船渡は、対岸の印西市岩戸にも船渡地名が残り、臼井と印西さらには常陸方面に向かう重要な街道の渡し場であったことがわかる*4。岩戸には、この船渡を見下ろす形で、根小屋地名をもつ単廓の船戸城跡があり、対岸臼井の八幡砦とともに渡河点を抑える役割を果たしていたことがわかる。(ibid.)

*1:See also https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20130228/1362073246 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20140730/1406693032 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20150409/1428557746 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20170407/1491538185 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2020/02/23/115654 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2022/04/18/085914

*2:外山信司「『雲玉和歌集』と印旛の浦――本佐倉城千葉勝胤との関連を中心に――」『印旛沼 自然と文化』3、pp.55-66、1996.

*3:千葉城郭研究会「中世房総水運史に関する一考察――舟戸・船津地名をめぐって――」『千葉城郭研究』2、1992.

*4:遠山成一『戦国後期の陸上交通と城郭、城郭と中世の東国』高志書院