「石枕」の話

承前*1

小倉和重「遺跡から見た印旛沼と人とのかかわり」『印旛沼』(印旛沼環境基金)42、pp.2-3、2022


曰く、


古墳時代になると水運の発達や交通の利便性から、広大な内海*2は軍事面でも重要な位置を占めるようになった。豪族の墓である古墳は、この内海を望む高台に群を成して分布している。その代表例が印旛沼東岸南部の成田市公津原古墳群と北部の栄町龍角寺古墳群である。公津原古墳群では、死者の頭を載せる「常総型石枕」が出土している。この石枕は印旛浦を含む香取の海南岸域に集中しており、この地域の豪族層は香取の海を媒介として密接な関係にあったことを物語っている。石枕より磁気は遡るが、成田市八代玉造遺跡は、緑色凝灰岩の管玉を製作した工人のムラとして著名である。しかし、玉類や石枕などの石材がどこから持ち込まれたのか、石枕の製作地はどこかなど、今なお不明である。龍角寺古墳群内には、印旛地域最後の大型前方後円墳である浅間山古墳や古墳時代終末期としては全国最大規模を誇る岩屋古墳が築造される。浅間山古墳からは、ヤマト王権とのつながりを示す漆塗棺と推定される塗膜や金銅製冠飾が出土している。古墳の築造が終焉を迎えた後は、大和山田寺系の瓦当文様を用いた下総地域最古の寺院である龍角寺*3が建立される。(p.3)