2つの江戸川

http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20140726/1406357069


小林明「なぜ東京・江戸川区にインド人村が誕生?」という日経の記事を引く。江戸川区、特に西葛西周辺に印度人が集住しているということは以前から聞いていた。その理由の一つは地下鉄東西線の存在であり、金融系が集中する茅場町日本橋、大手町へのアクセスがいいということ。ただ東京の印度系のコミュニティが目立たないのは、定住的ではなくみんな数年のサイクルで他の国に転勤してしまうためであるということだった。
それから、上で引かれた日経の記事でも触れられていないのだが、印度というのは多民族・多言語国家である。ジュンパ・ラヒリの『その名にちなんで』*1は印度系米国人の世界を描いた小説だが、ここに登場する印度人の世界とはベンガル人の世界であり、より北方のデリーなどの人は外人(よそよそしい存在)として描かれる。また日経の記事は印度人=ヒンドゥー教徒という前提で書かれているが、印度にはパキスタンの人口以上のムスリムがいることを忘れてはならない*2

その名にちなんで (新潮文庫)

その名にちなんで (新潮文庫)

古寺多見氏のエントリーに戻る。後ろの方で、「現在「荒川」の下流とされているのは、明治時代の大水害を機に建設された「放水路」に過ぎない」という。また、「昔の荒川の下流は今の隅田川である」と。江戸時代の話であればそれは正しい。Wikipediaに曰く、

現在「隅田川」と呼ばれている川は、元々は入間川下流部であり、1683年(貞享3年)また一説によれば寛永年間(1622年-1643年)までは下総国武蔵国の国境であった。1629年(寛永6年)の荒川瀬替えにより荒川の本流となったが、洪水を防ぐ為に明治末期から昭和初期にかけて岩淵水門から河口までの荒川放水路が建設され、こちらが現在「荒川」と呼ばれている。1965年3月24日に出された政令によって荒川放水路が荒川の本流となり、分岐点である岩淵水門より下流は、千住大橋付近から下流部の俗称であった「隅田川」に改称された。荒川に面せず、隅田川に面している荒川区が「荒川」の名を持つのは、こうした事情による。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%85%E7%94%B0%E5%B7%9D
さらに時代を遡ると、現在の「中川」こそが荒川及び利根川の本流だった*3。関東の水系は複雑というか、まあ香取海*4が存在した江戸時代初期までとそれ以降とは区別して考えた方がいいようだ。
話は中川や荒川放水路よりも東の、かつて「太日川」と呼ばれていた江戸川*5に飛ぶ。「太日川」が何時頃から「江戸川」になったのかは分からないのだが、古くからの東京の住人にとって「江戸川」とはもっと西側に、隅田川よりも西側にあった川である。神田川飯田橋よりも上流部を「江戸川」と呼んだ。今でも「江戸川橋」という橋や地下鉄(有楽町線)の駅名にその名残がある。野口冨士男『私のなかの東京』*6に曰く、「早稲田方面から流れてきた江戸川は飯田橋と直角をなしながら、後楽園の前から水道橋、お茶の水方向に通じている船河原橋の橋下で左折して、神田川となったのちに万世橋から浅草橋を経て、柳橋の橋下で隅田川に合する」(p.11)。また「江戸川」の畔に出生した大岡昇平の『幼年』*7には、

もとこの辺[新小川町]一帯は江戸川の彎曲の影響で、白鳥池という遊水池になっていたという。『東京名所図絵』は二丁目一〇番地内にその名残りの池があったと伝える。
江戸川の水源は井の頭の池で、河道を整備して上水となる。関口台町に堰を設けて、水量を調節した。上水は暗渠となって小石川台に沿って東南流し、いわゆる「水道橋」の大樋となって、外濠を越えていた。江戸川は関口からの分流で、上水とほぼ並行して流れ、「大曲」から屈折して飯田橋で外濠に落ち、お茶の水へ向う神田上水に加わる。落ち口の船川原橋下にも堰があり、小落差があた。新小川町一丁目より小石川に渡る隆慶橋の上までかなりの水深があり、父が釣りを楽しむことができたのである。(pp.17-18)
とある。私がこの西の江戸川のことを、軽い驚きを伴いつつ、知ったのは高校1年か2年の頃だったと思う。その頃はまだ地下鉄有楽町線はなかった。「江戸川」が「神田川」に統一されたのは1970年のことなので*8、数年ずれれば、あのかぐや姫の曲も「江戸川」というタイトルになっていた可能性はある。
幼年 (講談社文芸文庫)

幼年 (講談社文芸文庫)