「パワーゲーム」を超えて

藤原辰史*1「[緊迫のウクライナ情勢]総合的な視点、報道を」『毎日新聞』2022年2月24日


これは露西亜軍によるウクライナ全面侵略開始*2以前に書かれたもの。
「パワーゲームにうつつを抜かすプーチンたちの政治を骨抜きにする歴史的社会的観点」が重要なのだという。


いまウクライナ危機関連の記事は北大西洋条約機構NATO)とロシアのパワーゲーム分析の性格は強すぎて、ウクライナとそこで暮らす人びとの生活と歴史へのまなさしが弱い。結局為政者たちと同じ「飢えから目線」に見えてしまう。
「国家の名誉にかけて」「崇高な理想」を世界に向けて語れと憲法に書いてある日本は、崇高な理想が語りにくい殺伐とした時代だけにいっそう、知性が試されていると強く意識すべきだろう。これこそ日本らしい国際的平和貢献ではないか。
(前略)1938年9月の世界史の転換点を思い浮かべているのである。ヒトラーチェコスロバキアのズデーデン地方を要求し独軍を国境付近に集中させたとき、この事態を話し合うミュンヘン会談では戦争回避と引き換えにズデーデンをナチスに差し出した。それから半年後にヒトラーチェコスロバキアを丸ごと併合したが、このとき当該地域の生活と文化と歴史への理解が西欧の政治家には決定的に欠けていた。ヒトラーの資質や性格ばかりが話題となり、パワーポリティクスにのっとり、小国をいけにえにささげる大国意識がヒトラーをつけ上がらせた面もあったと思う。
「モスクワ」と「キエフ」;

モスクワは、古都キエフを中心とするルーシ(ロシアの古名)の辺境だったが15世紀から力を増しルーシの諸公国を併合した。ウクライナはそのモスクワを中心とするロシア帝国ポーランド・リトアニア共和国ハプスブルク帝国オスマン帝国のはざまで分裂と統合を繰り返した。やっとウクライナ人民共和国として独立したあともボリシェビキと戦争、結局ソ連の一部に組み込まれ、ようやく独立を果たしたのは1991年のこと。ウクライナ議会の名「ラーダ」は、コサックの参加者平等を原則とする会議の名が由来だ。
「土の皇帝」と名高い黒土チェルノーゼムが西欧の胃袋を満たしていたがために独ソ双方の欲望が露骨に向けられたこと、ソ連穀物の強制徴発で数百万人が餓死した歴史も見逃せない。現在のような世界的な土壌劣化の時代にウクライナが焦点になる意味はもっと考えられてもよいがそんな報道も少ない。

そして、そんな歴史の中で生まれたハイブリッド文化に危機克服のヒントはないだろうか。世界的ピアニストのホロビッツウクライナユダヤ人である。チャイコフスキー*3ウクライナ・コサックの血筋で、交響曲2番は採譜されたウクライナ民謡が取り入れられている。ニジンスキーからポルーニンまでバレエダンサーも輩出している。ゴーゴリ*4ウクライナ中部の小地主の出身だ。