『極太!! 思想家列伝』

極太!!思想家列伝 (ちくま文庫)

極太!!思想家列伝 (ちくま文庫)

石川忠司『極太!! 思想家列伝』(ちくま文庫、2006)を読了したのはかなり以前である。
これは中央公論新社から『現代思想 パンク仕様』として刊行されたものに、「ボーナストラック」を加えたもの。とにかく、目次を書き出してみる;

I 助走――あなたがたに言っておく
  唯物論的ならず者


II エクリチュール
  ゴーゴリ、パンクス文学の始祖
  カフカアンダーグラウンドの動物
  村山槐多のまっすぐと直角
  志賀直哉の巻
  ジャンクの守護天使井伏鱒二


III 思想
  大拙はぼくらの友達
  「人造的自然人」の思想――柄谷行人の『探究II』について
  ライヒ=アンチ・オイディプス(ただしローファイ・バージョン)


IV うた
  修業者の言語――中原中也試論


V ボーナストラック――快男児研究の現在
  「私的な欲望」について
  快男児の基礎――アラン・バディウ『聖パウロ』について
  宮崎市定――男気の歴史学
  豪傑論――アンチ・コミュニケーション
  マキャヴェッリ小論――「政体」と「機能体」


俺の註釈
参考文献
あとがき
文庫版あとがき
解説 勇気の書  保坂和志 

石川忠司の書く物は常に面白い。『孔子の哲学』も『現代小説のレッスン』*1も楽しく読んだ。本書も例外ではない。ただ、これは石川忠司だけでなく日本に蔓延る文藝批評の論風の問題だと思うのだが、「思想家列伝」となっているのが気に入らない。それは私たちに先ず現れるのは「思想家」ではなく思想、作家ではなく作品だろうからだ。「思想家」なり作家なりというのは、まず作品や思想が現れて、事後的に析出(時には捏造)されるものにすぎない。だから、もっとテクストに粘着して欲しいのだ*2
さて、本書を(「ボーナストラック」も含めて)読んで気づくのは、石川忠司の主張の一貫性である。特に文学とかに興味がない人は、最初の「唯物論的ならず者」と最後の「マキャヴェッリ小論――「政体」と「機能体」」を読めばいいと思う。本書に収められたテクストは、或る意味でみな「唯物論的ならず者」の変奏であるといっていいと思う。
全般的にアルチュセールがフィーチャーされた「唯物論的ならず者」では、先ず「観念論的言語」について、「支配集団による、彼らに都合のいい言語=観念の押し付けが成功しているから、現実はクソになっている、といってよい」(p.14)と述べられる。曰く、

観念論的言語は、ひとに「想像の世界」を与えて、現実に彼(彼女)が何をやっているか、されているかを覆い隠す。例えば、現実的には待ったなしの経済的収奪なのに、観念論的言語=想像の世界においては、「日々を仕事に捧げ、堅実に、清らかに生きる」という人生の目的=真理が実現している素晴らしい状態、に変貌してしまうのである。(pp.14-15)
それに対して、「支配集団の観念論的言語を退けて、これに代わる新たな言語=観念を提示し、その「文法」を受け入れさせて現実を変えていく「実践」」としての「批判」(p.15)が対立するわけだが、著者はそれを肯定するわけではない――「一方には、考えるだけでむかつく観念論的言語とそれが「創り出す」犬小屋的現実があり、もう一方には、やたら「立派」で志こそ高邁だが、現実にフィード・バックしない批判的言語がそびえている」(p.16)。さらに、

この批判的言語は、現実に効力を発揮できない代わりに、その分、妙な「前向き」さ、架空の「意気込み」に磨きがかかり、「批判」としての「完成度」のみ高めていく。――その主張は、柔軟さに欠け、教条的=原理的で、したがってバカな逸脱、悪ふざけのたぐいを許さないで「健全」だ(「ユーモア」や「笑い」と呼ばれる独特の「伝統芸能」は行われるが)。つまり、批判的言語は、「批判的」な型、ポーズを守るだけであって、まったく形式ばった「文語」と変わらない。(pp.16-17)
それに対して、「唯物論的ならず者」は、

観念論的言語および観念論的現実に戦いを挑むが、それは批判的言語がやるような、敵を真っ向から「批判」するたぐいの正攻法、雄々しき戦法によってではなく、もっと卑怯で情けなく、ある意味で貧乏たらしい――すなわち「チンピラ臭い」やりくちによってである。もちろん、「チンピラ臭い」とは、「唯物論的」の別名だ。(p.20)

この、言語=観念を「解体」する作業を、唯物論的ならず者は、やはり言語=観念を使って成し遂げる。彼(彼女)にとって、自分の言語=観念は、いわば懐に隠し持つダイナマイトである。言語には言語をぶつけて爆破させる、つまり相殺させるのだ。――唯物論的チンピラの「中世的」形態である禅坊主も、当時の支配的な言語=観念および現実の相対化を目指すにあたって、宗教家のように別の言語=観念(形而上の世界)を構築するのではなく、言語=観念の呪縛自体から脱出しようとがんばった。そんな伝統もあって、言語=観念が爆発して滅ぶときの痛快な音響は、禅坊主が「悟り」を開く瞬間にあげる絶叫そっくりに違いない。(p.22)
何よりも、石川のいう(「批判」を含む)「観念論者」と「唯物論者」の違いは、

観念論者は、リアルな現実を彼の言語=観念の内部に取り込んで、勝手に改竄しているから、原則として、その(彼の)世界の真理、真実を知っている。何をするまでもなく、ただ座っているだけであろうと、あらかじめすべてを知っているのだ。だが、唯物論者にとって、現実とは、言語=観念の向こう側に客観的に広がる未知の何かである。現実世界は完全な「他者」であって、そこでは、まず自分で実際に行動し、試してみなくては、何も得られない。(p.26)
というところに存するのだろう。
孔子の哲学 (シリーズ・道徳の系譜)

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現代小説のレッスン (講談社現代新書)

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*1:Cf. http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20050630http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070219/1171905464

*2:いちばんそれに近い実践を行っているのは、「ジャンクの守護天使井伏鱒二」だろう。