「歴史」と「川」(藤原辰史)

藤原辰史*1「流速を上げる市井 強権化する統治」(シリーズ 疫病と人間*2)『毎日新聞』2020年8月29日


曰く、


歴史は川と似ている。流速と流量が一定ではない。急激に流れる時代もあれば、緩やかに流れる時代もある。流れが滞っているところもあれば、スムーズに流れるところもある。川の流速と流量が場所と時間によってどう異なるかを見極めることが、歴史を知り、現在をどう見極めるかの成否に関わっている。
では、川の水は歴史にたとえるならば何か。体内の5から7割が水で構成される市井の人びとである。これらの人びとが何千年もかけて山を削り、土砂を運び、肥沃な堆積物を生み、歴史に動きをもたらしてきた。ところが歴史の教科書には、川の流れを堰き止め、コントロールした人間ばかりが登場し、英雄視されてきた。
川が暴れぬように、ダムを建設し、側面をコンクリートで固める治水、すなわち治安こそが歴史である、と。なるほど、治水は人間の命を洪水から救う。だが、「治民」はどうか。馴致された川の水はそれらの人間によってあおられ、ファシズム軍国主義を生み出してきたのである。
四大文明の発達が川の氾濫がもたらす養分によっていたように、川の本質は本来的には氾濫と攪乱である。それが必ずしも市井同士の暴力に結びつくとは限らない。氾濫時ではないときも。川の水が、川底の土砂を、ひとときも欠かすことなく攪拌し、川に棲む無数の生きものたちに養分を供給してきたのである。
だからいま、世界中の民衆史の川が、新型コロナウイルスによる社会の差別構造を明らかにし、移動を堰き止めたことがきっかけとなって水嵩と流速が増し、エネルギーに満ちているのはむしろ当然である。

(前略)低価格の住居に固定され、移動がしにくい賃金と労働環境で雇われており、さらに新型コロナウイルスで動きを堰き止められている市井の人びとに対し、支配者たちはオンラインで情報を共有し、ヘリコプターに乗ってデモを罵ったり*3、暴力を使って流れを堰き止めようとしたりする。「流れ」と「氾濫」はこのように強圧的かつ遠隔操作的に管理されようとしている。そして、もうひとつの重要な技術を見逃してはならないと思う。「ミスダイレクション」(視線誘導)である。「タネ」のありかから注意を逸らすというマジックの基本技術だ。
それゆえ、日本の水量は上がっていない、というのは幻影である。森友にせよ、加計にせよ、沖縄の民意の度重なる無視にせよ、保健所、給食調理員、教員、清掃従事者、図書館などの公的ケアの人件費削減にせよ、非正規雇用労働者の雇い止めにせよ、特定秘密保護法やスーパーシティ法にせよ、民間大企業への市場提供にせよ、公共放送への権力の介入にせよ、日本の政権が半世紀かけて作ってきた財政緊縮と民間委託路線と監視の強化が、ルカシェンコやトランプやモディ*4と同様な統治・経済システムが、コロナ禍で見事に脆弱性を露呈した。
これまではオリンピックや高校野球やワールドカップなどの大きなイベントで貴重な紙面を奪われ、議論すべき論点が圧縮され、さらにテレビ局は論じるべき無数の社会動向の代わりに芸能人の動向紹介へと「ミスダイレクション」を乱発し、川の流れを別の方向へ誘導してきた日本では、堰き止められた不満は必ずしも毎回可視化されない。だが、にもかかわらず、コロナ禍でイベントが激減し、紙面や番組が社会問題を直視しなければならなくなる中で、現代の社会システムの非公平性が見え始めた。アベノマスク*5検事長定年延長問題*6などへの反発は、日本の市井の流速がかなり高まっていることの証拠だろう。