「空虚さ」を抱きしめるために

山本圭『現代民主主義』*1から。
自由民主主義」の意義について、クロード・ルフォール*2の論を参照しつつ。


(前略)選挙とは、権力が一時的であって絶対的なものではないことを可視化する一つの政治制度である。つまり、選挙のたびに私たちは、権力の場が本来は空白であること、権力者が退場する可能性を否が応でも想起するわけだ。
さらにルフォールは、選挙が社会の同一性というフィクションを解体すると言っている。たとえば投票所が閉じられたあと、テレビやインターネットの選挙特番などで、各政党に議席が割り振られていく様子が放送される。この光景は、私たちの社会が多様な価値観の寄せ集めに過ぎないことを露わにする。「政治体にこれまで認められてきた普遍的なものに取って代わろうとする普遍的な選挙(普通選挙)において、こうした個々人が数えるべき単位になってしまうのだ。(……)数の観念はただそれだけで、社会には実態があるという観念に対立する。数が一体性を解体し、同一性を無化する」(ルフォール 二〇一七*3)。つまり普通選挙とは、社会的分断の制度化である。選挙は権力の場をめぐる政治的競争を制度的に担保し、その本来的な空虚さをたえず私たちに思い出させる。(pp.6-7)

なぜルフォールは社会の同一性を批判するのだろうか。それは、社会が同一性を追い求め、異質なものを排除するようになると、全体主義に陥ってしまうと考えているからだ。
彼によると、全体主義は、異質なものや偶然的な事柄に対する私たちの不安を通じて忍び寄る。同一性の欲望は、たとえば自分たちとは異なる言語や文化的背景をもつ他者や隣人を排除しようとするだろう。そのかぎりで、全体主義は民主主義の反対物ではなく、むしろその不確実性を否認することから生じる。だからこそ、権力の空虚さを隠蔽したり、社会の一体性を取り繕う全体主義的な誘惑に抵抗するために、民主主義の空白をつねに擁護し、同時に繰り返し創出しなければならない、これがルフォールの議論である。(p.7)