「敵」を巡って(雪斎)

承前*1

櫻田淳「政治における「敵」の三つの類型」http://sessai.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-66bb.html


http://sessai.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-4cb2.htmlに対する補足。
カール・シュミットを参照して「敵」の3つの類型について曰く、


 政治という営みの本質は、「友」と「敵」の峻別にあることを指摘したのは、カール・シュミットだった。
 忘れていけないのは、シュミットは、その「敵」を三つに分類していたことである。。
 どのように分類したのか。
 (1)*2 在来型の敵
(2) 現実の敵
 (3) 絶対の敵
 (1)は、ゲームにおける「敵」のイメージである。サッカーのチームが、相手チームの監督を「敵将」お(sic.)呼ぶイメージである。だから、「敵」に対する憎悪の感情は、ほとんどない。戦争が終われば、「敵」とも握手して別れる。

 (2)は、自分の安全や利害に対して、リアルな脅威を与えてくる「敵」である。故に、「在来型の敵」とは違って、憎悪の感情がむきやすい。野球の試合で、ビーン・ボールが投げられた途端に、乱闘に発展することがあるのは、「在来型の敵」が「現実の敵」に変わったことを例であろう。逆にいえば、「現実の敵」」が、具体的な脅威を与えないようになれば、妥協し、共存してて(sic.)いくことは可能だということになる。
 (3)は、自分が奉ずる「正義」の実現に際して、その実現を邪魔しようという「敵」である。「正義」は、妥協の難しいものである。妥協は、「正義」の純粋性を汚すものと意識されるからである。妥協のできない「絶対の敵」とは、排除するか根絶するかの何れかしかなる。それは、自分にリアルな脅威を与えているかは、あまり関係がない。フランス革命からクメール・ルージュに至るまで、幾度となく繰り返された阿鼻叫喚の風景は、この「絶対の敵」の根絶の風景である。

これに異議を差し挟むわけではないが、現実にはこれら3種類の間には連続的な移行性もあり、あくまでも理念型だということを忘れてはならないと思う。(2)だと思っているのに大衆扇動の目的で(3)が喧伝されることもある。また、フィールドと観客席の差異ということもあるか。プレイヤーは(1)だと思っているのにサポーターの方は勝手に(3)だと思い込んで盛り上がっているとか。(1)を(3)であるかのように虚構し、ファンもその虚構を虚構と知りつつついてゆくというのはかつてプロレスで散々用いられた手口。
雪斎先生の小泉純一郎弁護にちょっと突っ込んでおく。勿論、「反革命」や「非国民」と「抵抗勢力」とは言葉の歴史的重みが全然違うということはある。ただ、小泉純一郎(及びその仲間たちの)手口にかつて久野収鶴見俊輔(『現代日本の思想』)が言った意味での〈顕教密教〉構造がなかったかどうか。たしかに、高層における「密教」としては(2)に過ぎなかったかも知れない。しかし、大衆扇動用の「顕教」においては、またそれに煽られたフォロワーの頭の中においては、(3)だったのではないか、とか。
現代日本の思想―その五つの渦 (岩波新書 青版 257)

現代日本の思想―その五つの渦 (岩波新書 青版 257)

*1:http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100429/1272517957

*2:原文の丸囲み数字が表示されなかったので、(1)(2)(3)に改めた。