「ゲイアッツ」

ロバート・ダール『ポリアーキー』(高畠通敏、前田脩訳)*1第8章「政治活動家の信念」への注53;


イデオロギーの決定要因としての〈利益理論〉に関して、クリフォード・ゲイアッツは次のように論評している。「利益理論の主要な欠陥は、その心理学があまりに貧弱であり、社会学があまりに強力すぎるということである」。”Ideology as a Cultural System,” in Apter, ed., Ideology and Discontent*2, p.53 (p.290)
「ゲイアッツ」という表記に吃驚。この本の底本は1981年の三一書房版。その頃、Geertzの読みとして、「ゲイアッツ」というのは全然聞いたことがなかったからだ。当時、Clifford Geertz*3の日本語訳というのは殆どなかった。1973年に岩波新書から『二つのイスラーム社会』というのが刊行されたけれど、その翻訳を長島信弘先生が『民族学研究』の書評で徹底的に批判したため。事実上の絶版になっていた。その際に、著者名は「ギーアツ」となっていた。その後、岩波から出た訳本では「ギアーツ」となっている。なお、Wikipediaは「ギアツ」を採用している*4。Geertzという綴りから「ゲイアッツ」という片仮名はすんなり結びつかないので、Clifford先生自身が「ゲイアッツ」に近い自称をしていたということがあるのだろうか。或いは、映画のネイティヴ・スピーカーは「ゲイアッツ」に近い発音をするのだろうか。なお、訳者のひとり高畠通敏は2004年に他界している。
さて、Geertzの「文化システムとしてのイデオロギー」という論文、この本では初出から引用されているが、現在一般に読まれているのは、GeertzのThe Interpretation of Culturesに所収のものだろう。注の方を先に引用してしまったが、本文の方もちょっと抜き出しておこう;

(前略)自己の利益とか、グループの利益というもののとらえ方は、多様に変化する。それゆえ、信念を自己利益の表現と説明することは、特に役立つわけではない。というのは、自己利益とされるものは、その人の認識的な信念によって左右されるからである*5。おそらく自己利益として説明する最も一般的な型は、信念を、社会や経済における、個人の立場の反映として解釈することだろう。体系的なものにせよ、断片的なものにせよ、この種の傾向を表わしている厖大な研究が存在する。しかし、こうした研究によれば、個人の信念と、社会経済的特質との間の相関は、ほとんどいつも弱いということがわかる。そこにおける重要な発見は、関係が存在するということではなく、その関係が、どれほど弱く、不安定であるかということなのである*6。(p.245)