「バザール」も甘くないかも

橘玲*1「伽藍の世界」http://www.tachibana-akira.com/2010/10/807


曰く、


バザールは参入も退出も自由だから、相手に悪い評判を押し付けてもあまり効果はない。悪評ばかりの業者は、さっさと廃業して、別の場所や別の名前で商売を始めるからだ。

バザールでは、悪評と同様に、いったん退出するとよい評判もゼロにリセットされてしまう。だから、たくさんのよい評判を獲得した業者は、同じ場所にとどまってさらに評判を増やそうと考える。顧客は評価の高い業者から商品やサービスを購入したいと考えるから、これがいちばん合理的な戦略なのだ(ネットオークションがその典型だ)。

バザール空間でのデフォルトのゲームは、できるだけ目立って、たくさんのよい評判を獲得することだ。だからこれを、ポジティブゲームと呼ぼう。

それに対して閉鎖的な伽藍空間では、いったん押し付けられた悪評はずっと付いて回る。このゲームの典型が学校でのいじめで、いったん悪評の標的にされると甚大な損害を被るから、できるだけ目立たず、匿名性の鎧を身にまとって悪評を避けることが伽藍を生き延びる最適戦略になる。これが、ネガティブゲームだ。

レイモンドの『伽藍とバザール』はまだ読んでいないのだった(orz)。また、「バザール」について検討するにはクリフォード・ギアーツ先生*2の仕事を検討するということは必須なのだろうけど、今その余裕なし。山崎正和氏の『社交する人間』*3で『伽藍とバザール』が言及されていたことを思い出す。但し、それは経済のスタイルの類型としての「伽藍」と「バザール」に関してではない。「オープンソース」を巡って、

開発者の第一義的な動機は金銭欲ではなく、ネットワークの内で成立する名誉欲だとレイモンドは言う。全員が自分の業績を仲間に「贈与」し、代償として「評判」を獲得しようとする。ここには権力も固定的な構成員もなく、およそ組織性を欠いたバザールのような空間が広がっている。だがそれは知的な生産者にとって信用と相互認知の喜びがいかに重要であり、それによって一つの共同体の秩序すら保たれうるという、実例を示しているのである。(p.350)
「伽藍」と「バザール」に対応する経済の類型として山崎氏が提示しているのは「生産と分配の経済」と「贈与と交換の経済」(p.188ff.)。これはジェイン・ジェイコブス*4による「市場」と「統治」の二分法への批判(p.192ff.)に関わっているのだが、取り敢えず山崎氏の文を抜き出してみる;

(前略)生産と分配の経済は同質性の高い社会に根ざし、またその同質性をさらに強める方向へと作用する。安定した必需品の観念を共有し、それを所与の目的として共同生産に従事する社会では、人びとの帰属感が強められるのは自然だろう。採集や遊牧の段階でも彼らは集団で移動し、農業や工業の段階にはいればさらに一定の場所に定住するようになった。生産と分配は境界によって閉じられた社会を築き、内には忠誠心で結ばれた固定的な仲間集団を組織する。先史人の集落から近代の国民国家にいたるまで、狩猟民の群団から株式会社の組織にいたるまで、ここでは集団を実力によって支配する「権力」が生まれやすい。手段は露骨な暴力であったり、法と制度による規制であったりするが、いずれにせよ階層的な強制力が集団の秩序を守る原理となる。生産と分配が築く社会は本質的に外部と対立する社会であり、みずからを守り拡大するために戦闘的になりやすい社会だといえる。(pp.191-192)

(前略)贈与と交換の経済は正反対の傾向を示し、最初から対立を内部に包んだ異質性の高い世界をつくりあげる。それが築くのは社交と商業の世界であるが、ここには明確な境界とメンバーシップを伴う固定的な社会は生まれにくい。商業の世界では共通の需要の観念を前提にすることはできず、少なくとも個々の商品については、一回の取引ごとに需要をつくる説得が繰り返される。社交の世界でも何が真に人の心を打ち、何が真に友好的な贈与かという価値観は、一回ごとの状況にあわせた心遣いによって決定される。どちらも人間をつなぐ絆は個人間の相互認知であり、たえず築きなおされる「信用」と「権威」のほかにはないだろう。そして個人の相互認知で結ばれる社会には権力は生まれにくく、内部に固い階層秩序が育ちにくいことは容易に推察できる。それは外郭ではなく中心の引力によって統一された社会、すなわち古代の村落や近代の国家ではなく、広場にバザールを備えた都市をイメージさせるのである。(p.192)
また、山崎氏は起源における「商業」は「純粋な好奇心」によって動機付けられたのであり、その根源的な交易は「実質的な物品の移転ではなく、他のあらゆる手段に先行するコミュニケーションの方法」だったのではないかと想像する(pp.184-185)。曰く、

(前略)生活様式の異なる集落や部族どうしが思いがけず接触したとき、そこには対立の契機を含んだ異質性の自覚*5が生まれたはずである。とくに生産物の質が大きく異なる共同体、たとえば山の民と海の民が遭遇したような場合、彼らは恐怖と敵意をこめて互いを差別したかもしれない。しかしその反面、彼らが人間として抜きがたい本性を持っていたとすれば、やがてその敵意が最初の好奇心に変わったことは容易に考えられる。そしてその好奇心は互いにとってもっともわかりやすい対象、それぞれの生産物にまず向けられたと考えるのが自然だろう。言語の理解や習慣の容認に先だって、まず目と手で触れられる物品への関心が交流の道を開いたと想像されるのである。(p.184)

ある日、先史人は異質な共同体の生産物におそるおそる手を出し、思いがけなくその魅力に気づくという経験をしたのにちがいない。彼らはその価値を認めてそれを享受したうえで、代わりに自分たちが尊重する生産物をさしだしてあいての反応を見たであろう。むしろその行為はまだ贈与にたいする感謝の表現というより、自分たちの価値観を相手に認めさせようとという試みだったにちがいない。それはみずからが他部族の趣味を受けいれた以上、あいてにもみずからの嗜好を理解させようという、いわば強い自尊心の表現だったと考えられる。その意味でこの物品の互酬は互いの文化的な誇りの応酬であり、さもなくば流血の闘争を交わすはずの両部族にとって、それに準ずる代償行為だったといえるだろう。だがその結果としてもし両者が同一の産物に喜びを覚え、満足の基準を共有しえたとすれば、それはどんな言葉にもまさる相互理解の端緒となったのではないだろうか。(p.185)
社交する人間―ホモ・ソシアビリス (中公文庫)

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山崎氏の「想像」に完全に同意はしないけれど、氏のいう「生産と分配の経済」が「伽藍」に、「贈与と交換の経済」が「バザール」に対応するということは明らかだろう。さて、「バザール」において「信用」は取引の反復によって「たえず築きなおされる」。これは経済学の用語でいえば「取引費用」*6の問題ということになるのだろう(See eg. 原洋之介『アジア型経済システム』、山岸俊男『安心社会から信頼社会へ』)。橘氏のテクストに戻ろう。「悪評ばかりの業者は、さっさと廃業して、別の場所や別の名前で商売を始める」。理屈ではそうかも知れないけど、実際のバザールはそれほど甘くないだろう。バザールは純粋な経済の場ではない。商人や客は売買に専念しているのではなく、煙草を吸ったりお茶を飲んだりしながら無駄話をしていることが多い。これにはビジネス情報の収集・交換という機能もあるわけだが、その中には悪徳商人についてのゴシップもあるだろう。だから、バザールのオープン性故に「悪評」は「別の場所」(別のバザール)にも伝わってしまうのだ。
アジア型経済システム―グローバリズムに抗して (中公新書)

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安心社会から信頼社会へ―日本型システムの行方 (中公新書)

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何故(高度な資本主義や社会主義を頂点とするように)「伽藍」というか「生産と分配の経済」が歴史的に優位を占めるに至ったのか。勿論効率性ということもあるだろう。また当事者の都合というものもあるだろう。「贈与と交換の経済」はコミュニケーション、特に人と人の間に流れる〈空気〉を読むのが苦手だという人にとってはきついところがある*7。そういう人にとっては「生産と分配の経済」に生きる方がはるかに楽だ。また、商人と直接買い物に関係しないコミュニケーションをしなければいけないのは疲れるしうざいという客もおり、それは段々と増えているともいえるだろう。そのような人にとっては、バザールよりも寧ろ「伽藍」に属するだろうデパート、スーパー、コンビニ、さらには自動販売機の方が快適に買い物ができるわけだ*8。「伽藍」或いは「生産と分配の経済」の方が退屈かもしれないけれど、楽は楽だということになる。ところで、「伽藍」に所属したからといって、それが人間の社会活動である以上、コミュニケーション或いは〈空気〉を読むことから免れられるわけではない。但し、その場合のコミュニケーションの相手は相対的に固定的で(契約によって制限されている)上司や同僚(或いは上部機関)だったり、眼前にいる具体的な顧客というよりは統計学的に構築された〈顧客層〉だったりするわけだが。
橘氏のテクストは全体として共感できるものの、日本語でいう2つの市場、つまりイチバとシジョーの差異が無視されているのではないかと思った。2つの市場の差異の無視ということでは、最近大庭健先生の『いま、働くということ』にも感じられたということを付け加えておく。
いま、働くということ (ちくま新書)

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