『「酔い」の政治学』

「酔い」の政治学 劇場国家はどこへ

「酔い」の政治学 劇場国家はどこへ

矢野暢という人は晩年に酷いセクハラ事件を起こして告発され、学界から追放され、俗界から自らを追放し(出家し)、それで死んだわけだが、そもそもは優れた政治学者/東南亜細亜研究者であった。
家にあった(というか昔古本屋のワゴンで見つけて、そのまま積んであった)『「酔い」の政治学 劇場国家はどこへ』(TBSブリタニカ、1986)を読んだら、かなり面白かった。前半では、「なんらかの外からの摂取物によって、理性が多少とも麻痺し、超自我的感覚にいざなわれること」(p.18)と「酔い」が定義され、自ら呑みながら書いたお喋りが次から次へと展開されていく。例えば「社会的行為としての酒盛り」(p.39ff.)とか、日本は「ブレンド国家」である(p.65ff.)とか。また、

要するに、日本の社会では、自分を殺して社会に順応する儀礼としての「モル」という窮屈なかたちが、なによりも尊ばれる飲酒のかたちであったのだ。そもそも全体主義的なこの日本では、ひとり酒は、陰湿な、こそこそしたイメージにつながり、ふたり酒は、(略)倒錯した誠実さ、あるいはこざかしい政治戦術につながる、というふうに考えられがちなのである。(p.57)
とか。ともかく、酒とか「酔い」についての社会科学的なテクストを書くとしたら、この本は必須の基本的参照文献になるだろう。
矢野暢は1980年代に「劇場国家」という言葉を流行らした。本人もクリフォード・ギアーツ*1の用語とは無関係であると明言していたが、当時はギアーツの本は殆ど翻訳されていなかった*2。この本の後半は、音楽、特に日本におけるクラシック受容を素材にした「劇場国家」論の応用篇といえる。その中の中心は、「山田耕筰の「罪と罰」」という山田耕筰論(pp.98-121)ということになる。著者の死後に、また晩年のセクハラ問題も念頭に置いて読むと、著者が山田耕筰の「女性の扱い方」が「獣的」であったこと(p.114)をかなりのスペース(pp.113-117)を割いて論じているのは興味深い。同じ著者の『劇場国家日本』もやはり古本屋で買って、そのまま積んであるのだが、これは本のタワーを全面的に解体しなければ取り出せない位置で眠っている。
劇場国家日本―日本はシナリオをつくれるか (1982年)

劇場国家日本―日本はシナリオをつくれるか (1982年)

ところで、不図思ったのだが、クラシックで交響楽こそ音楽の〈華〉とされるようになったのはどういう経緯でだったのか。

*1:Cf. http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061106/1162754079

*2:また、「小泉劇場」とかの最近の用法とも無縁。