南原のはたらき(加藤陽子)

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加藤陽子*1「内外への深い洞察 根底に」『毎日新聞』2021年2月20日


2月に発表されたテクスト。


(前略)プランB、感染の規模やワクチン接種の状況に鑑み[オリンピックが]開催困難となった時、政治の側が発すべき言葉について考えてみたい。国論が二分された状況下、極めて重要な物事が止められた例を、歴史のインデックスから探してみると、巨大な先例として、第二次世界大戦終盤における、終戦という選択がそれに当たると気づかされる。
海軍作戦部長・富岡定俊は「終戦詔書」を「実によく出来ている」と評している(『文藝春秋』1963年8月号)。「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」というのは一般国民というよりは「徹底抗戦を唱える軍人」に向けられたものだった。
加藤さんは「終戦詔書」起草に当たっての南原繁*2の役割を重視する。

終戦詔勅が「実によく出来てい」たのには理由があった。天皇の言葉を綿密に準備していた人間がいたからである。詔書起草に関与した者としては、思想家の安岡正篤や内閣書記官長の迫水久常らが有名だ。だが、早い段階から天皇詔書による終戦、との見取り図を描けていたのは、東京帝大法学部長の南原繁ら7教授だった。南原らは、詔書に書くべき言葉を45年春から練り始めていた。
戦争を終結させるには大義名分が要る。詔書の言葉のエッセンスを南原は、海軍一の情報将校、高木惣吉との極秘会談で語っていた。簡単な表現に改めて記せばこうなる。いわく、盟邦亡び、自国のみ戦うは、朕の心に非ず。世界人類のため、また内に向かっては国民を塗炭の苦しみより救うため、戦いを止めるのだ、と。実際の終戦詔書を思い出してみる。中核となる論理は、南原の構想に沿ったものだった。交戦を継続すれば、民族の滅亡だけでなく、人類の文明をも破却する、それは耐え難いとの論理構成がとられていた。
注目すべきは、日本と世界、国民と世界人類というように、内と外双方へ向けた深い洞察が周到に書き込まれていたことだ。終戦工作は極めて危険なものだったから、南原らは学問的に正確な情報を集め、的確に分析することで得た結論を、要路者に上げることだけを考えて行動していたという。
さて、

これまで述べてきたことは、統治権の総攬者が天皇であった時代の歴史である。五輪の中止を言うのに、政治的機能を持たないはずの天皇を持ち出そうとするのが、時代錯誤も甚だしいとの批判も聞こえてきそうだ。(略)ここで考えようとしたのは次の点だ。大戦の惨禍をくぐって誕生した新憲法で、主権者は国民と明示された。その我々が、終戦にあたって南原や天皇を含めた要路者のなした政治決定の記憶を継承しておくのは、今後のために有益なのではないか。
南原繁については、加藤節『南原繁』を読んで以降、知識があまりアップデイトされていない(汗)。